劉備
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蜀漢正統論
劉備が傍系とは言え漢王室の血筋であったことから、早くも東晋の時代には習鑿歯が『漢晋春秋』にて蜀漢正統論を唱え、劉備の蜀漢こそ正統で曹操の魏は簒奪者であると主張した。以後、議論は日本の江戸時代の浅見絅斎『靖献遺言講義』巻二の「三国正統弁」にまで続いた。
後世の評
陳寿の評:「度量が広く、意志が強く、心が大きく親切であって、人物を良く見極めて士人を待遇した。思うに前漢の高祖(劉邦)の面影があり、英雄の器であった。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、心に何らの疑念を抱かなかったこととなると、まことに君臣の私心なきあり方として最高のものであり、古今を通じての盛事である。権謀と策略にかけては、魏武(曹操)に及ばず、これがために国土もまた狭かった。しかしながら敗れても屈服せず、最後まで臣下とならなかったのは、武帝(曹操)の度量からいって絶対に自分を受け入れないと推し測ったからで、単に利を競うためというのでなく同時に害悪を回避する為であったのである[54]。」(『蜀書』「先主伝」)
習鑿歯はいう。先主は顛倒し困難に陥ったときであっても、信義をますます明らかにし、状況が逼迫し事態が危険になっても、道理に外れぬ発言をした。景升(劉表)の恩顧を追慕すれば、その心情は三軍を感動させ、道義にひかれる人々に慕われ(後についてこられ)れば、(見捨てることなく)甘んじてともに敗北した。彼が人々の心に結びついた経過を観察すれば、いったい、どぶろくを与えて凍えている者を慰撫し、蓼(にがい)を口に含み、民の病気を見舞った程度のことであろうか。彼が大事業を成し遂げたのも当然であろう[55]。
『三国志演義』における劉備
小説『三国志演義』は、黄巾の乱によって世が乱れる中、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いを結び、義勇兵を起こす場面から始まる。
劉備は仁徳によって諸勢力に重んじられ、同時に警戒されたが『演義』の中の劉備はさらにその個性の徹底化を図られ武勇を関羽、張飛をはじめとする武臣たち、知略を諸葛亮などの謀臣に預け、多様な個性を周囲に惹き付ける中心として位置している。しかも、若い時は母子で草鞋を作り行商し、吉川英治の小説『三国志』では当時庶民では高級品であったと言われる茶を母に飲ませるために金を貯めていたという苦労人として描かれている。ここから儒教の理想とする君子的高潔さが描かれ、これによって奸雄・曹操と対立軸を構成している。
『演義』の中の劉備は「双股剣」と「的盧」を愛用している[56]。「双股剣」は、桃園の誓いで義兄弟の契りを果たしたあと、張世平と蘇双から贈られた軍用金の一部で鋳させた二本合わせの剣。吉川の小説では、「大小の二剣」と表記され、呂布との戦いで使用された。また、同小説では先祖から伝わる剣を所持しており、旅先で黄巾族に襲われているところを救ってくれた張飛に対し礼としてこの剣を渡したが、旅先から戻りこれを知った劉備の母がひどく悲しんだとされている。この剣は張飛と再会し義兄弟の契りを交わした際に劉備の手に戻った。
『演義』では、呂布に追われている時に逃げ込んだ家の主人劉安は、劉備をもてなす食料がなかったので妻を殺害して、オオカミの肉と偽って、その肉を差し出し、そうとは知らず感激していた劉備だったが、顛末を知るやひどく悲嘆したという逸話が存在する(和訳本では削除されるか、価値観の違いについて注釈の上で紹介されている。また、吉川の小説ではこの描写前に、中国と日本の文化の違いについて明記している)。『演義』では、蜀を奪ったあと、義兄弟である関羽を魏呉連合軍に殺され、その後に後漢が滅ぶ。諸葛亮を始めとする群臣が劉備に帝位に就くよう勧めるが、「そなた達は私を不義不忠の輩に仕立てる気か」と激昂する。即位後には部下が張飛を殺して呉に逃亡したことにより怒り狂い、義兄弟の敵討ちを大義名分として呉に向かう。その際に黄忠を老人扱いしたり、自軍が75万という大軍勢な上に呉軍の士気が低いのを見て傲慢になっていた。そこを突いた陸遜により大敗し白帝城へ落ち延び、まもなく後悔の念にさいなまれ病気になる。病の床で見た夢に現れた関羽と張飛から「遠くなく兄弟三人がまた集うことになるでしょう」と言われ、自らの死期を悟る。そして諸葛亮を呼び寄せ、後のことを託して世を去る。
- ^ 簡体字での表記:刘备、ピン音:Liú Bèi
- ^ 現代中国語ではXuándé
- ^ 『晋書』巻一百・列伝第七十では、劉備を「烈祖」と称している
- ^ 四分暦(太陰太陽暦)
- ^ a b 『漢晋春秋』より。
- ^ 柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』(文藝春秋、2018年5月、57頁)
- ^ 『太平御覧』巻409人事部50交友4が引く孫楚の『牽招碑』より。
- ^ 柿沼陽平『劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』』(文藝春秋、2018年5月、59-60頁)
- ^ a b 柿沼陽平「後漢末の群雄の経済基盤と財政補填策」(初出:『三国志研究』第11号(2016年)/所収:柿沼『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P119-120・123-124.
- ^ 『典略』によると、187年に張純が反乱を起こした。青州刺史は張純討伐を命じた。その討伐軍が平原を通過したとき、劉子平(劉平?)は劉備が武勇に優れていると述べて従事に推薦した。劉備は従軍し、田野で敵軍と戦い負傷し、死んだ真似をした。友人に助けられ脱出した。後に軍功で安熹県の尉になった、と記されている。
- ^ 『典略』によると、当時、郡は勅命により軍功によって官吏となった人間の罷免の審議を行っていた。劉備は自分がそこに含まれているのではないかと疑い、旧知で郡の監察官である督郵が県にやってきたと聞き、これに面会を申し込んだところ詐病によって拒否された。これを恨んだ劉備は吏卒を率いて門に押し入り、督郵を縛り上げて100回余り叩き、命乞いを受けて立ち去った
- ^ 『英雄記』によると、霊帝の末年に劉備は洛陽にいた。後に曹操とともに沛に行き、兵を募集して集めた。間もなく曹操と董卓討伐に向かった、と記されている。
- ^ 『魏書』より。
- ^ 『太平御覧』巻838引『英雄記』によれば、劉備の領土の作物を奪い取って軍糧としていた。
- ^ 『英雄記』によれば、一計を案じた劉備は楊奉を誘って会見し、会見の席上で楊奉を謀殺した。韓暹は逃げ出したが、杼秋の守備隊長の張宣に討ち取られ、その首級は劉備に届けられたという。
- ^ 『三国志』呂布伝では「是兒最叵信者」といった記録が後代の『後漢書』呂布伝では「大耳兒最叵信」に改変されている。
- ^ 『後漢書』袁術伝
- ^ 『献帝春秋』
- ^ a b 『三国志』呉志 潘濬伝
- ^ 『三国志』「蜀書 巻二 先主伝」
- ^ 『三国志』「蜀書 巻七 龐統伝」
- ^ 季漢補臣賛
- ^ 『三国志』「呉書魯粛伝」
- ^ 蜀書先主伝 孫權以先主已得益州、使、使報、欲得荊州。先主言「須得涼州、當以荊州相與」
- ^ 『魏略』
- ^ 『華陽国志』
- ^ 『典略』
- ^ 漢中を占領しようとする劉備に対し、敗北を予言していた。しかし、劉備は漢中を手に入れたので、張裕の予言は外れたのだと理解した。
- ^ 習鑿歯は費詩が左遷されたのは当然であると述べており、裴松之は習鑿歯の議論の内でこの論が最も優れていると意見している。それに反論して盧弼は、費詩の論に賛同します。劉備の即位行為には王夫之に批判された。「費詩伝」
- ^ 葛洪『神仙伝』
- ^ 秦宓伝
- ^ 趙雲別伝にいう。趙雲は諫めて、「国賊は曹操であって、孫権ではありません。しかもまず魏を滅ぼせば、呉はおのずと屈服するでありましょう。曹操自身は死んだとはいっても、子の曹丕が簒奪をはたらいております。[それを怒る]人々の心にそいつつ、早く関中をわがものとし、黄河・渭水の上流を根拠として、逆賊を討伐すべきです。関東の正義の志士は必ずや食糧を持ち馬に鞭うって官軍を歓迎するでありましょう。魏をそのままにして、先に呉と戦ってはなりません。戦闘がひとたび交えられれば、すぐには解くことができないものです」といった。
- ^ 孫桓伝
- ^ 若い頃に母方の家で養われ、姓は狐、名は篤といったが、後に元の姓に戻り、名を忠と改めた。
- ^ 馬忠伝
- ^ 渡邉義浩『三国志』中央公論新社(中公新書)
- ^ 康煕帝などの資治通鑑の批評をまとめた乾隆帝勅撰の『御批歴代通鑑輯覽』に、「昭烈於亮平日以魚水自喻,亮之忠貞豈不深知,受遺時何至作此猜疑語,三國人以譎詐相尚,鄙哉!」とある。
- ^ 那珂通世『支那通史』岩波文庫中冊、P234、原漢文書き下し
- ^ 『四川文物』1987年第1期「劉備墓及真偽考弁」
- ^ 奉節県公式ページによる議論の概要。もちろんこのページでは奉節県に墓所があると主張されている。
- ^ 族譜によると劉永には劉晨という子がいて、劉備の血統を伝えたことになっているが疑わしい。劉晨の系図は外部リンクを参照。
- ^ 晋書劉元海載記「永興元年,元海乃為壇於南郊,僭即漢王位,下令曰:「(中略)昭烈播越岷蜀,冀否終有泰,旋軫舊京。何圖天未悔禍,後帝窘辱。自社稷淪喪,宗廟之不血食四十年於茲矣。今天誘其衷,悔禍皇漢,使司馬氏父子兄弟迭相殘滅。黎庶塗炭,靡所控告。孤今猥為群公所推,紹修三祖之業。顧茲尪暗,戰惶靡厝。但以大恥未雪,社稷無主,銜膽棲冰,勉從群議。」乃赦其境内,年號元熙,追尊劉禪為孝懷皇帝,立漢高祖以下三祖五宗神主而祭之。」
- ^ 揚雄の『方言』にいう。悈・鰓・乾・都・耇・革は老の意味である。郭璞の注にいう。みな老人の皮や毛がかさかさになり張りを失った状態をいう言葉である。臣(わたくし)裴松之は考える。皮から毛を取り去ったものを革という。昔は革をもって兵(武器)を作った。だから兵革という言葉があるのであり、革は兵と同義である。彭羕が劉備を罵倒して老革といったのは、ちょうど老兵といったようなものである。
- ^ 諸葛亮がそのことを楊洪にたずねると、楊洪は「男子は戦い、女子は輸送に当たるべきだ」と進言した
- ^ 『十六国春秋』巻80 范長生伝
- ^ 渡辺精一『三国志人物鑑定辞典』では、「膝まで垂れる長い手」は「手を動かせる範囲が広い」≒「多才」と解釈でき、さらに「自分の耳を見ることもできる目」は「細かい所までよく見ることができる」という意味に取れるため、劉備の身体的特徴についての記録は「聡明である」という意味に解釈できる、との説明がされている。
- ^ 潞は露(あらわ)と同音、涿は啄(くち)と同音で、口があらわな人という意味になる。
- ^ 安岡正篤『十八史略』
- ^ 高島俊男『三国志きらめく群像』ちくま文庫。『蜀書』における劉備の伝では「先主伝」とある。また、劉備の後を継いだ劉禅は後主とされている。
- ^ 『漢書』「王子侯表」によると陸成侯。「亭侯」は後漢の爵位の制度で、前漢には存在していなかった。引き続き「王子侯表」で劉貞は紀元前127年に侯に封じられたと、記されている(詳しくは劉貞を参照)。
- ^ 『後漢書』には3人の臨邑侯の名が記録されている。一人は建武2年(西暦26年)に真定王劉楊と共に後漢への謀反を起こした劉譲であり、もう一人は建武30年(54年)に臨邑侯に封じられた劉復、いま一人は劉復の子の劉騊駼である。劉譲は劉楊の弟であり、劉楊は前漢の景帝の7代の孫である。劉復は北海靖王劉興の子であり、劉興は光武帝の兄の斉武王・劉縯(伯升)の子である。
- ^ 林亮勝・橋本政宣・斎木一馬『寛永諸家系図伝 第1』続群書類従完成会、1980年1月1日、14頁。ISBN 4797102365 。
- ^ 山田勝芳『秦漢財政収入の研究』(汲古書院、1993年) ISBN 4-7629-2500-4 pp.631-632
- ^ 原文:「弘毅寛厚、知人侍士。蓋高祖之風、英雄之器焉。及其挙国託孤於諸葛亮、而心神無疑貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。機権幹略、不逮魏武、是以基宇亦狭。然折而不撓、終不為人下者、抑揆彼之量必不容己。非唯競利、且以避害云爾」
- ^ 先主伝 第二
- ^ 『三国志』にはそのような剣があったという記録はない。的盧は『三国志』「先主伝」の注や『先主伝集解』にその名がある。
- ^ 『三国志』「魏書九 曹仁伝」には、曹純が劉備の娘2人を捕らえたとある。
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