きり‐どおし〔‐どほし〕【切(り)通し】
切通し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:33 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動切通し(きりどおし)とは、山や丘などを部分的に開削し、人馬の交通を行えるようにした道である。
概要
トンネル掘削技術が発達していなかった明治時代以前には、切り立った地形の難所に道路を切り開く手段として広く用いられた。現代でも、工事費がトンネル掘削費用と比較し、安くあがる場合には用いられるほか、古い狭隘道路のトンネルを拡幅する際、土被りが浅いなど土地の条件によってはトンネルを取り壊し切通しに作り変える場合があった。
街道整備のために作り、鎌倉市のように封鎖を容易に行えるような狭いものから、何人も横に通れるようなものもある。
この他、町中にも建物を取り壊して新たな通りを作った場合なども切通しと呼ばれることがあり、またそれが町名などになっていることもある。
各地の切通し
鎌倉の切通し
源頼朝が幕府を開いた鎌倉は、南が海で他の三方が山に囲まれた閉鎖的な地形で防御には適していたが、交通には不便だったため切通しが整備された[1]。
姉川の切通し
滋賀県長浜市大井町の姉川の堤防には住民の通行のために堤防を切り下げた切通しと呼ばれる構造を設けた場所があり、堤外地の畑まで出水した時には地元住民が水防小屋から角材を出して堰板を設置する作業が行われてきた[2]。しかし、2017年の平成29年台風第5号で切通しから溢水が発生したため閉鎖されることになった[2]。
出典
- ^ 谷口 史記. “古都鎌倉の歴史に触れる「切通し」”. 建設コンサルタンツ協会. 2021年9月21日閲覧。
- ^ a b 藤本 義輝. “姉川にある「切り通し」の閉鎖について”. 滋賀県長浜土木事務所. 2021年9月21日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 切通 - 地名辞典 ONLINE(更新日不明)2018年8月24日閲覧
切通し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 14:22 UTC 版)
天正8年(1580年)青柳頼長が切り開き、麻績宿から青柳宿への通行を容易にした。江戸時代には享保元年(1716年)、明和6年(1769年)、文化6年(1809年)の3回にわたって切り下げた記録が切通しの岩に刻まれている。周辺には百体観音が安置された。『善光寺道名所図会』には「是によりて旅人ともに牛馬の往来いささかも煩はしき事なく野を越え山を越して麻績宿に到る」とある。 最も大きい切通しで高さ6メートル、幅3メートル、長さ27メートルで史跡に指定されている。
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