倭・倭人関連の中国文献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 07:51 UTC 版)
概要
倭の文字の初出は、正史は後漢初頭に書かれた『漢書』地理志(班固)であり、正史以外では『論衡』(王充)がある。
『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海の中にあると書いており、『論衡』では、越常と倭が併記され、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連があると推定しているようである。『晋書』や『梁書』などでは「太伯之後」と記し、倭人が呉の祖である太伯の子孫と自称していたことを記録している。
現在残されている中国の文献には266年から413年にかけて倭国に関する記述がないことから、日本では4世紀を「空白の4世紀」と呼ぶ[1]。
なお琉球(流求)についての記述はある時期まで現在の台湾と区別されていないとされるため以下から除外する。
『論衡』
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時、天下は太平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
とみえる。
周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、周の成王の在位は前1042年~前1021年とされるが、『論衡』自体はかなり後の後漢の時代の1世紀に書かれたものである。なお、暢草には、霊芝、ウコン、香花草等の説がある。
『山海経』
『山海経』第十二「海内北経」
倭は燕に朝貢していたと考えられていたことがわかる。ただし、同書は伝説集または神話集の体裁をとっており、「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実を忠実に反映したものとみなすことについては疑問視されている。『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。この黒歯国と倭が関連付けられている記載として、以下のものがある。
『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)
「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」
女王(卑弥呼)国を去ること4000余里(4000里前後)に裸国が有り、また黒歯国が在り、(裸国から)東南に船でおよそ一年である。
『梁書』巻五十四 列伝第四十八 諸夷伝 東夷条 倭
「其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 」
その(女王国の)南に侏儒国が有り、(侏儒国の)人の身長は三四尺(古代中国の1尺は、隋までは23cm前後なので、三四尺は23cm×3≒70cm〜23cm×4≒90cm)である。また南に黒歯国と裸国があり、倭を去ること4000余里(4000里前後)、船でおよそ一年で至る。
注釈
出典
- ^ 日本放送協会 (2023年3月2日). “発見!「空白の4世紀」の古墳から何が? | NHK | WEB特集”. NHKニュース. 2023年6月27日閲覧。
- ^ 『続・日本の地名』岩波新書 1998年 ISBN 4004305594 31頁
- ^ '양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼 聯合ニュース(2011年8月23日)2011年9月25日閲覧。2011年8月23日、韓国の仁川都市開発公社ユン・ヨング博士により、新しく見つかった『梁職貢図』の新羅に対する題記に、新羅が倭の属国であるという一節が見つかっている。
- ^ 續修四庫全書 子部 芸術類藝 NAVER(2011年8月23日)2011年9月25日閲覧。8行目から「斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘」とあり、倭國の属国と見なされていたことがわかる。
- ^ a b “'양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼”. 聯合ニュース. (2011年8月23日). オリジナルの2021年5月11日時点におけるアーカイブ。
- ^ 三木太郎「中国正史倭(倭国・倭人)伝の史料系統について[1]」
- ^ 舊唐書東夷傳 - ウェイバックマシン(2017年5月21日アーカイブ分)
- ^ 舊唐書 卷一九九上 東夷伝 倭國 日本 - ウェイバックマシン(2005年1月7日アーカイブ分) < 古代史獺祭
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