倭・倭人関連の中国文献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 07:51 UTC 版)
『魏志』倭人伝
『三国志』魏書巻三十 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』)
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
倭人は帯方郡[注釈 2]の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国
東夷伝には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。
東夷伝の韓伝冒頭にも倭という記載がある。
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)
韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり。
『晋書』
『晋書』武帝紀 太康10年(289年)条
「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」
この絶遠の東夷に倭人が含まれていると見ることがある。倭人については東夷伝と武帝紀、倭国については安帝紀に書かれている。
邪馬台国についての直接の記述は無いが、魏の時代の倭人や卑弥呼については書かれている。また266年の「倭人」の朝貢は日本書紀の神功皇后紀に『晋起居注』(現存しない)から引用された「倭の女王」の記事と年次が一致し、その前の文帝(司馬昭)の時代(255~265年)にも何度もやって来たと東夷伝にあるので、この女王は台与と考えられている。
266年「11月に倭人が方物を献じた」に続いて、「円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせた」と解釈した記事を、あえて連続したものと見てとって「晋書武帝紀に東夷の前方後円墳のおこりが記されている」と即断した新説が提示されているが、依然として懸念が残されている。
- 『晉書』四夷傳(東夷条) - ウェイバックマシン(1999年8月27日アーカイブ分)
- 『晉書』帝紀(抜粋) - ウェイバックマシン(1999年8月27日アーカイブ分)
『宋書』
『宋書』倭国伝
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。
「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
倭王に叙爵し、倭国が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)に対して、百済を除く朝鮮半島及び倭の六国支配を認めた。倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。
- 宋書倭国伝
- 『宋書』「夷蠻伝」倭国伝 - ウェイバックマシン(2004年12月15日アーカイブ分)
注釈
出典
- ^ 日本放送協会 (2023年3月2日). “発見!「空白の4世紀」の古墳から何が? | NHK | WEB特集”. NHKニュース. 2023年6月27日閲覧。
- ^ 『続・日本の地名』岩波新書 1998年 ISBN 4004305594 31頁
- ^ '양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼 聯合ニュース(2011年8月23日)2011年9月25日閲覧。2011年8月23日、韓国の仁川都市開発公社ユン・ヨング博士により、新しく見つかった『梁職貢図』の新羅に対する題記に、新羅が倭の属国であるという一節が見つかっている。
- ^ 續修四庫全書 子部 芸術類藝 NAVER(2011年8月23日)2011年9月25日閲覧。8行目から「斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘」とあり、倭國の属国と見なされていたことがわかる。
- ^ a b “'양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼”. 聯合ニュース. (2011年8月23日). オリジナルの2021年5月11日時点におけるアーカイブ。
- ^ 三木太郎「中国正史倭(倭国・倭人)伝の史料系統について[1]」
- ^ 舊唐書東夷傳 - ウェイバックマシン(2017年5月21日アーカイブ分)
- ^ 舊唐書 卷一九九上 東夷伝 倭國 日本 - ウェイバックマシン(2005年1月7日アーカイブ分) < 古代史獺祭
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