倭・倭人関連の中国文献
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『後漢書』
『後漢書』東夷伝
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
倭奴国(の王)は、(朝鮮半島中部の楽浪郡を介して)、後漢の都の洛陽にまで使人(高官)をはるばる派遣し、朝貢した。光武帝によって授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされている。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国か)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)国王と読む説もある。
一方、中国の史書では、「倭奴国」は「倭国」の旧称と記されている。
- 『北史』倭国伝
- 安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。
- 後漢安帝の時(106-125年)、また遣(使)朝貢した、これを「倭奴国」という
- 『隋書』倭国伝
- 安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國
- 後漢安帝の時(106-125年)、また遣使朝貢した、これを「倭奴国」という
- 『旧唐書』倭国・日本国伝
- 倭國者、古倭奴國也。
- 倭国とは、古の「倭奴国」なり
この後は倭国大乱と卑弥呼の記事があり、『三国志』の『魏書』東夷伝の倭人条(魏志倭人伝)に似ているが、「大乱」の時期を「桓霊間」(桓帝と霊帝の時代)と具体的に記すなど相違点もある。魏志「東夷伝」にはこの他、『漢書』地理志から引用したと見られる「東鯷人」の記事、『三国志』の『呉書』孫権伝から引用したと見られる夷洲と亶洲(「澶洲」と誤記)の記事もある。
「冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出」
檀石槐伝
『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十の檀石槐伝に以下の記述がある。
- 「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」[注釈 1]
注釈
出典
- ^ 日本放送協会 (2023年3月2日). “発見!「空白の4世紀」の古墳から何が? | NHK | WEB特集”. NHKニュース. 2023年6月27日閲覧。
- ^ 『続・日本の地名』岩波新書 1998年 ISBN 4004305594 31頁
- ^ '양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼 聯合ニュース(2011年8月23日)2011年9月25日閲覧。2011年8月23日、韓国の仁川都市開発公社ユン・ヨング博士により、新しく見つかった『梁職貢図』の新羅に対する題記に、新羅が倭の属国であるという一節が見つかっている。
- ^ 續修四庫全書 子部 芸術類藝 NAVER(2011年8月23日)2011年9月25日閲覧。8行目から「斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘」とあり、倭國の属国と見なされていたことがわかる。
- ^ a b “'양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼”. 聯合ニュース. (2011年8月23日). オリジナルの2021年5月11日時点におけるアーカイブ。
- ^ 三木太郎「中国正史倭(倭国・倭人)伝の史料系統について[1]」
- ^ 舊唐書東夷傳 - ウェイバックマシン(2017年5月21日アーカイブ分)
- ^ 舊唐書 卷一九九上 東夷伝 倭國 日本 - ウェイバックマシン(2005年1月7日アーカイブ分) < 古代史獺祭
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