倭・倭人関連の中国文献 『北史』

倭・倭人関連の中国文献

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 07:51 UTC 版)

『北史』

北史について。

『北史』倭国伝

漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。
後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝、大夫を自称する。
安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。
安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という

北史倭国伝では主に、「邪馬台国への行程」、「邪馬台国以前の歴史」、「倭国の制度・風俗」、「阿蘇山」、「邪摩堆への行程」、「外交書簡」が述べられている。

『南史』

南史について。

『南史』倭国伝

南史倭国伝では、「倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。」に始まり、「倭国の風俗」、「倭の五王」、「侏儒国黒歯国・裸国」、「文身国」、「大漢国」、「扶桑国」について記述されている。

『隋書』

隋書』の「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記載がある。『隋書』では倭国ではなく俀国と評価されるが、これは別の国という意味ではなく単なる譌体(誤字)である[6]。ここでは全て「俀」を「倭」と表記を戻して解説する。

男女多黥臂點面文身 没水捕魚
 男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)し顔に点し身に文し、水に没して魚を捕る

とある。『魏志倭人伝』記事の焼き直しでなく、608年の隋使裴清裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたものであれば、7世紀初頭の倭人社会についての資料となる。また、

新羅 百濟皆以倭爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來
新羅百濟は、みな倭を以て大国にして珍(寳)物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す

とある。

開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之
開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

この遣隋使の記録は日本側には無い。

大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法
大業三年(607年)其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ。』と。

倭の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしていると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べている。

海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。そして、この一節の直後に有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の記述が続いている。

古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
古くは云う、楽浪郡境及び帯方郡を去ること、並びて一万二千里。会稽の東に在りて、儋耳と相近しと。

当時の隋の古伝によれば、倭人のルーツは、楽浪郡帯方郡から1万2000里(約4800m)離れた会稽の東側にあり、儋耳と近かったという。

『隋書』東夷傳

「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」
九夷(中国の東に住む諸民族)が居る所は、中華から遠くにあり、(九夷の)天性は柔順である。

注釈

  1. ^ 『三国志』「魏書」「烏桓鮮卑東夷伝」鮮卑に「後檀石槐乃案行烏侯秦水 廣袤數百里 停不流 中有魚而不能得 聞汙人善捕魚 於是檀石槐東撃汗國 得千餘家 徙置烏侯秦水上 使捕魚以助糧 至于今 烏侯秦水上有汙人數百戸」とあり裴松之の注釈で汙人を倭人とする
  2. ^ 後漢の末に遼東太守であった公孫氏が勢力を伸ばし、204年(後漢建安9年)楽浪郡の南に建てたのが帯方郡である。

出典

  1. ^ 日本放送協会 (2023年3月2日). “発見!「空白の4世紀」の古墳から何が? | NHK | WEB特集”. NHKニュース. 2023年6月27日閲覧。
  2. ^ 『続・日本の地名』岩波新書 1998年 ISBN 4004305594 31頁
  3. ^ '양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼 聯合ニュース(2011年8月23日)2011年9月25日閲覧。2011年8月23日、韓国の仁川都市開発公社ユン・ヨング博士により、新しく見つかった『梁職貢図』の新羅に対する題記に、新羅が倭の属国であるという一節が見つかっている。
  4. ^ 續修四庫全書 子部 芸術類藝 NAVER(2011年8月23日)2011年9月25日閲覧。8行目から「斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘」とあり、倭國の属国と見なされていたことがわかる。
  5. ^ a b “'양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼”. 聯合ニュース. (2011年8月23日). オリジナルの2021年5月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210511192943/https://www.yna.co.kr/view/AKR20110823082800005 
  6. ^ 三木太郎「中国正史倭(倭国・倭人)伝の史料系統について[1]
  7. ^ 舊唐書東夷傳 - ウェイバックマシン(2017年5月21日アーカイブ分)
  8. ^ 舊唐書  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本 - ウェイバックマシン(2005年1月7日アーカイブ分) < 古代史獺祭





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