人工知能の歴史 AIの冬第1期 1974−1980

人工知能の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 23:19 UTC 版)

AIの冬第1期 1974−1980

1970年代、AIは批判と資金縮小に晒された。AI研究者は直面していた問題の難しさを正しく評価できなかった。楽天主義から予想される成果への期待があまりにも高まったが、結果はその期待に応えられず、AI研究への出資はほとんど無くなった[75]。同じころマービン・ミンスキーパーセプトロンが排他的論理和を例として、特徴量をそのままでは線形分離可能でないものは学習できないことを示した。これが誤解・誇張されて伝わってしまったことで、データに対してコネクショニズム(またはニューラルネットワーク)の分野は約10年間あまり盛んでなくなった[76]。1970年代後半のAIは一般大衆の受けが悪かったが、新たに論理プログラミング常識推論英語版などの新たな領域が生まれている[77]

問題

1970年代前半、AIプログラムの能力は限定的だった。最も進んだものでも小さな問題しか扱えず、どのプログラムも言ってみれば「おもちゃ」だった[78]。AI研究者は1970年代には解決できない根本的限界に直面した。その一部は後に克服されているが、21世紀の今も残っている問題もある[79]

コンピュータ性能の限界
実用化に当たっては、コンピュータのメモリ容量や速度の不足は深刻であった。例えば、Ross Quillian の自然言語処理プログラムはわずか20の語彙しか扱えず、それが当時のメモリに収まる限界だった[80]。1976年、ハンス・モラベックはコンピュータが知性を持つには数百万倍も強化する必要があると主張した。彼は、人工知能がコンピュータの能力を必要とするのは、航空機が動力を必要とするのと同じだという比喩を示唆した。あるしきい値以下では不可能だが、性能が高まっていけば最終的に容易に知性が得られるだろうと主張した[81]。例えばマシンビジョンについてモラベックは、人間の網膜がリアルタイムで物体の境界や動きを検出する能力を機械で実現するには、毎秒109回の命令実行が可能な(1000 MIPSの)汎用コンピュータが必要だと推定している[82]。2011年現在、実用的なコンピュータビジョンのアプリケーションは10,000から1,000,000MIPSの処理能力を要する。1976年当時の最速のスーパーコンピュータ Cray-1 は、せいぜい80から130MIPSの能力であり、当時のデスクトップ型コンピュータは1MIPSにも達していなかった。
Intractability組合せ爆発
1971年のスティーブン・クック定理英語版に基づき、1972年、リチャード・カープ指数関数時間(入力のサイズに対して指数関数的になる時間)でしか解けない問題が多数あることを示した (en)。それらの問題の最適解を求めるには、問題がごく小さい場合を除いて極めて多大な処理時間を要する。これは、AIプログラムが「おもちゃ」のような問題に適用している解法の多くを、そのままスケールアップしても使えないことを意味していた[83]
常識的知識英語版推論英語版
コンピュータビジョン自然言語処理といった重要な人工知能アプリケーションの多くは、実世界についての大量の情報を必要とする。見えているものが何なのか、話している内容が何についてなのか、といったことをプログラムが知る必要がある。つまり、そのようなプログラムは話題や見えているものについて子ども程度の知識を持っている必要がある。研究者はそういった情報の量が非常に膨大になることに気付いた。1970年当時、そのような知識を蓄えられるほど巨大なデータベースは構築できなかったし、それだけの情報を蓄積するプログラムをどう書けばいいのかも不明だった[84]
モラベックのパラドックス
定理証明や幾何学問題を解くといったことはコンピュータにとって比較的簡単だが、人間にとって簡単な顔の識別や物に当たらずに部屋を横切るといったタスクはコンピュータには非常に難しい。1970年代中ごろまでマシンビジョンロボット工学があまり進展しなかった原因はそのあたりにあった[85]
フレーム問題条件付与問題英語版
ジョン・マッカーシーのように論理学に基づいているAI研究者らは、論理そのものの構造を変更しないと自動計画における普通の推論を表現できないことを発見した。このため、新たな論理(非単調論理様相論理)を開発して問題を解こうと試みた[86]

資金供給の終り

AI研究に資金を供給していた機関(イギリス政府DARPANRCなど)は、成果がないことに苛立ち、AI研究へのひもなしの資金供給がほぼ全て削減対象となった。最初の動きは1966年、機械翻訳の進展のなさを批判した ALPAC の報告書である。2000万ドルを注ぎ込んだ後、NRCは全サポートを終了させた[87]。1973年、イギリスにおけるAI研究の現状を報告した Lighthill report では「壮大な目標」の達成には完全に失敗していることが批判され、イギリスでのAI研究の解体が始まった[88]。この報告書ではAI研究失敗の原因として組合せ爆発問題を挙げている[89]DARPACMUでの音声認識プロジェクトの進展に失望し、毎年300万ドルの資金を停止した[90]。1974年ごろにはAI研究への公的資金提供はほぼ見られなくなった。

ハンス・モラベックは同僚たちの非現実的な予測がこの危機の原因だとし、「多くの研究者が誇張を増大させるクモの巣に巻き込まれた」と述べている[91]。しかし問題はそれだけではない。1969年、マイケル・マンスフィールドの改正案が可決され、DARPAは「方向を定めない基礎研究よりも方向を定めた任務的研究」に資金提供するよう圧力がかかった。60年代のDARPAからの自由奔放な研究への資金提供は継続できなくなった。その代わりに目標がはっきりしているプロジェクト、例えば自律式戦車や戦闘指揮システムなどといったものへ方向性が変化した[92]

他学界からの批判

一部の哲学者は、AI研究者の主張に強く反論した。最初の批判者の1人 John Lucas は、ゲーデルの不完全性定理形式体系(コンピュータプログラムなど)では人間が真偽を判断できることも判断できない場合があることを示していると主張した[93]ヒューバート・ドレイファスは60年代の守られなかった約束を嘲笑し、人間の推論は「記号処理」などではなく、大部分が身体的かつ本能的で無意識なノウハウによっているとし、AIの前提を批評した[94][95]。1980年、ジョン・サールが提示した中国語の部屋は、プログラムが記号群を使っているからといって、それについて「理解」しているとは言えないことを示したものである(志向性)。記号群が機械にとって何の意味もないなら、その機械は「思考」しているとは言えないとサールは主張した[96]

これらの批判は、AI研究者には的外れに見えたため、ほとんど真剣に受け取られなかった。intractability常識推論英語版の問題の方が身近で差し迫ったものとして感じられていた。「ノウハウ」または「志向性」が実際のコンピュータプログラムにどんな違いを生じさせるかは不明瞭だった。ミンスキーはドレイファスとサールについて「彼らは誤解しているから、無視してかまわない」と述べた[97]。当時MITで教えていたドレイファスは冷たくあしらわれることになった。後に彼はAI研究者らが「あえて私と昼食をとり、目を合わせないようにした」と述べている[98]ELIZAの作者ジョセフ・ワイゼンバウムは、同僚たちのドレイファスへの対応が子どもっぽいと感じた。彼もまたドレイファスの考え方には率直に批判していたが、彼は「彼らのやり方が人を扱う方法ではなかったと意図的に明らかにした」[99]

ケネス・コルビー英語版ELIZAを使ってDOCTORというセラピストの会話ボットを書いたことをきっかけとして、ワイゼンバウムはAIについて真剣に倫理的疑念を抱くようになった。コルビーがそれを実際の治療に使えるツールと考えたことにワイゼンバウムは混乱した。確執が始まり、コルビーがそのプログラムへのワイゼンバウムの寄与を認めなかったことで事態は悪化した。1976年、ワイゼンバウムは『コンピュータ・パワー 人工知能と人間の理性』という本を出版し、人工知能の誤用が人命軽視につながる可能性があると主張した[100]

パーセプトロンとコネクショニズムの暗黒時代

パーセプトロンニューラルネットワークの一種で、1958年にフランク・ローゼンブラットが発表した。彼はマービン・ミンスキーとは高校の同級生だった。他のAI研究者と同様ローゼンプラットも楽観的で「パーセプトロンは最終的には学習でき、意思決定でき、言語を翻訳できるようになるだろう」と予言している。このパラダイムの研究は60年代に活発に行われたが、ミンスキーパパートが1969年に出版した著書『パーセプトロン』によって状況が一変した。同書はパーセプトロンに重大な制限があることを示唆し、ローゼンブラットの予測がひどく誇張されたものだったことを示唆していた。その影響は破壊的で、コネクショニズムに関する研究は10年間事実上まったくなされなかった。結局、新世代の研究者が後に研究を再開させ、人工知能の有効な一部となった。ローゼンプラットはミンスキーらの著書が出版されて間もなくボートの事故で亡くなったため、コネクショニズムの復活をその目で見ることはできなかった[76]

論理、Prologとエキスパートシステム

論理学をAI研究に導入したのはジョン・マッカーシーで、1958年に Advice Taker の提案書でのことである[101]。1963年、ジョン・アラン・ロビンソン英語版がコンピュータで演繹を実装する簡単な方法、導出ユニフィケーションのアルゴリズムを発見した。しかし、マッカーシーと彼の学生達が60年代後半に試みたように、直接的な実装は非常に困難だった。そのプログラムは単純な定理の証明にも天文学的なステップ数を必要とした[102]。論理へのより有効なアプローチは70年代にエジンバラ大学ロバート・コワルスキー英語版が発展させ、間もなくフランスの研究者アラン・カルメラウアー英語版とフィリップ・ルーセルと共同で論理プログラミング言語 Prolog を生み出すことになる[103]。Prologは論理のサブセット(「プロダクションルール」と密接に関連するホーン節)を使い、扱いやすい計算を可能にしている。ルールの考え方は長く影響を及ぼし、エドワード・ファイゲンバウムエキスパートシステムアレン・ニューウェルSoarの基盤となっている[104]

ドレイファスのように論理的アプローチを批判する者は、人間が問題解決の際に論理をほとんど使わないと指摘する。ピーター・ウェイソン英語版エレノア・ロッシュ英語版エイモス・トベルスキーダニエル・カーネマンといった心理学者の実験でそれが証明されている[105]。マッカーシーは人間がどうやっているかは無関係だと応えた。彼は、必要とされているのは問題を解くことができる機械であって、人間のように考える機械ではないと主張した[106]

フレームとスクリプト

マッカーシーの方向性はMITのAI研究者にも批判された。マービン・ミンスキーシーモア・パパートロジャー・シャンクは「ストーリー理解」や「物体認識」といった問題を解決しようとしており、それには人間のように思考する機械が「必要」だった。「椅子」や「レストラン」といった概念を普通に扱えるようにするには、人間が普通に行っているように非論理的な仮定をする必要がある。だが、そういった不正確な概念は論理で表現しづらい。ジェラルド・サスマンは「本質的に不正確な概念を説明するのに精密な言語を使っても、正確さは向上しない」と気付いた[107]。ロジャー・シャンクは彼らの「非論理的」アプローチを "scruffy"、マッカーシー、コワルスキー、ファイゲンバウムニューウェルサイモンといった研究者のアプローチを "neat" と称した[108]

1975年、ミンスキーは論文で "scruffy" の研究者らが似たようなツールを使っていることを記した。それは何らかの事物についての我々の常識的知識英語版を全て捉えるフレームワークである。例えば、「鳥」という概念を考えたとき、飛ぶ、虫を食べる、などといった一連の事実がすぐさま思い浮かぶ。我々はそれらの事実が常に真実ではないと知っているし、そういった事実を使った推論が「論理的」ではないと知っているが、我々が何かを語り考えるときそういった一群の構造化された前提が文脈の一部を形成している。彼はその構造を「フレーム英語版」と呼んだ[109]。シャンクはある種のフレーム群を「スクリプト英語版」と呼び、それを使って英語の短いストーリーについての質問に答えることに成功した[110]







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