人工知能の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 23:19 UTC 版)
第1回AIブーム: 推論と探索の時代 1956年−1974年
ダートマス会議後の数年は発見の時代で、新たな地平を疾走するような勢いだった。この時代に開発されたプログラムは推論と探索に頼っており、巨額を投じて開発された当時の最高峰のコンピュータであっても、処理可能な計算量はごく僅かであったため、非常に限定的な領域の問題しか解けなかったが、それでも当時の人々にとっては「驚異的」だった[49]。コンピュータは代数問題をといてみせ、幾何学の定理を証明してみせ、英会話を学習してみせた。ごく少数を除いて、当時の人々はコンピュータにそのような「知的」な行動が可能だとは全く信じていなかった[50]。研究者らはプライベートでも印刷物でも強烈な楽天主義を表明し、完全に知的な機械が20年以内に製作されるだろうと予測した[51]。ARPAなどの政府機関は、この新しい領域にどんどん資金を注ぎ込んだ[52]。
成果
1950年代末から1960年代にかけて、プログラムと新たな方向性で多くの成功例がみられた。以下に特に影響の大きいものを示す。
手段目標分析
初期のAIプログラムの多くは同じ基本アルゴリズムを採用していた。(ゲームに勝つ、定理を証明するなど)何らかの目標を達成するため、迷路を探索するようにそれに向かって(実際に移動したり、推論したりして)一歩一歩進み、袋小路に到達したらバックトラッキングする。この技法を「手段目標分析」と呼ぶ[53]。
根本的な困難は、多くの問題で「迷路」でとりうる経路の数が天文学的だという点である(これを組合せ爆発と呼ぶ)。探索空間を狭めるためにヒューリスティクスや経験則を用い、解に到達しそうもない経路を排除する[54]。
ニューウェルとサイモンはこのアルゴリズムの汎用版を確立しようと試み、そのプログラムをGeneral Problem Solverと称した[55]。他の探索プログラムは幾何学の問題を解くなど印象的な成果をもたらしている。例えば、Herbert GelernterのGeometry Theorem Prover(1958)、ミンスキーの指導する学生James Slagleが書いた SAINT(1961)などがある[56]。行動計画を立案するために目標を探索するプログラムもある。例えばスタンフォード大学のロボット「シェーキー」の行動を制御するために開発されたSTRIPSがある[57]。
自然言語
AI研究の重要な目標の1つが、コンピューターと英語などの自然言語で会話できるようにすることである。初期の成功例として Daniel Bobrow の STUDENT というプログラムがあり、高校レベルの代数問題を解くことができた[58]。
意味ネットワークは、概念(例えば、「家」、「ドア」)をノードとし、概念間の関係(例えば "has-a")をノード間のリンクで表したものである。意味ネットワークを使った最初のAIプログラムは Ross Quillian が書いたもので[59]、最も成功した(議論も呼んだ)のはロジャー・シャンクのCD理論である[60]。
ジョセフ・ワイゼンバウムのELIZAは、非常にリアルな会話が可能で、ユーザーは人間と会話しているかのような錯覚を覚えるほどだった。しかし、ELIZAは単純なパターンマッチングで応答しているだけで、会話の内容を理解していない。ELIZAはいわゆる人工無脳のさきがけである[61]。
マイクロワールド
1960年代末、MIT人工知能研究所のマービン・ミンスキーとシーモア・パパートは、AI研究をマイクロワールドと名付けた人工的かつ単純な状況に焦点を合わせて行うべきだと提案した。彼らは、物理学などの成功している科学でも摩擦のない平面や完全な剛体などの簡素化したモデルを使うことで基本原理が最もよく理解されたことを指摘した。多くの研究が注目したのは、色つきの様々な形状と大きさの積み木が平らな平面の上に置かれている「積み木の世界」である[62]。
このパラダイムから、実際に積み木が積まれた状況を画像から認識するためのマシンビジョンが発達した。これにはチームを率いたジェラルド・サスマン、制約伝播の概念を確立したデイビッド・ワルツ、パトリック・ウィンストンといった人々が関わった。同じころミンスキーとパパートは積み木を積むことができるロボットアームを製作して、積み木の世界を現実のものとした。このマイクロワールドのパラダイムでの最終成果はテリー・ウィノグラードのSHRDLUである。SHRDLUは普通の英語の文で対話でき、計画を立案し、それを実行する[63]。
楽観主義
第一世代のAI研究者は以下のような予測を述べている。
- 1958年、ハーバート・サイモンとアレン・ニューウェル:「10年以内にデジタルコンピュータはチェスの世界チャンピオンに勝つ」そして「10年以内にデジタルコンピュータは新しい重要な数学の定理を発見し証明する」[64][65]
- 1965年、ハーバート・サイモン: 「20年以内に人間ができることは何でも機械でできるようになるだろう」[66]
- 1967年、マービン・ミンスキー: 「一世代のうちに(中略)人工知能を生み出す問題のほとんどは解決されるだろう」[67]
- 1970年、マービン・ミンスキー(ライフ誌): 「3年から8年の間に、平均的な人間の一般的知能を備えた機械が登場するだろう」[68]
資金
1963年6月、MITは新たに創設された高等研究計画局(後のDARPA)から220万ドルの資金提供を受けた。この資金で Project MAC が創設され、そこにはミンスキーとマッカーシーが5年前に作ったAIグループも含まれることになった。ARPAは1970年代まで毎年300万ドルを提供し続けた[69]。ARPAはCMUのニューウェルとサイモンの計画にも、スタンフォード人工知能研究所(ジョン・マッカーシーが1963年に創設)にも資金を提供した[70]。もうひとつの重要なAI研究所は1965年、ドナルド・ミッキーがエディンバラ大学に創設した[71]。この4つの研究拠点がAI研究の中心として長く資金供給を受けた[72]。
その資金はほとんどひも付きではなかった。ARPAの部長J・C・R・リックライダーは「プロジェクトではなく人間に投資するのだ」という信念を持っており、研究者には好きなように研究させた[73]。それがMITでの自由奔放な雰囲気を生み出し、ハッカー文化を誕生させることになったが[74]、いつ結果が出るかも分からない「野放し」状態は続かなかった。
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