人工知能の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 23:19 UTC 版)
AIの冬第2期 1987−1993
1980年代商業界でのAIへの関心の高まりは一時的であり、バブル経済の古典的パターンを踏襲した。批判はあったが、AI研究はさらに進歩し続けた。ロドニー・ブルックスとハンス・モラベックはロボット工学を専門とする研究者で、人工知能について全く新しいアプローチを主張した。
AIの冬
「AIの冬」という言葉は1974年の資金供給停止を生き延びた研究者らが作った用語であり、彼らはエキスパートシステムへの熱狂が制御不能となってその後に失望が続くのではないかと心配した[127]。彼らの心配は現実となり、80年代から90年代初めにかけてAI研究は再び資金難に陥った。
最初の兆候は、1987年にAI専用ハードウェアの市場が突然崩壊したことだった。AppleやIBMのデスクトップコンピュータは徐々に性能が向上し、1987年にはシンボリックスなどが生産する高価なLISPマシンを性能的に凌駕するようになった。LISPマシンを購入する理由がなくなり、5億ドルの市場が一瞬で消え去った[128]。
また、XCONなどの成功を収めた初期のエキスパートシステムは、維持コストが非常に高くつくことが判明した。更新が難しく学習機能もなく、入力が間違っているととんでもない答を返してくるという問題もあり、数年前に明らかとなっていた条件付与問題の餌食となった。エキスパートシステムは確かに有効だったが、それはごく限られた状況でのみだった[129]。
80年代末、Strategic Computing InitiativeがAI研究への資金供給をカットした。新たなリーダーを迎えたDARPAはAIが「次の波」ではないと判断し、直近の成果が期待できるプロジェクトに資金を供給することにした[130]。
1991年、第五世代コンピュータプロジェクトも当初掲げた様々な目標を達成することなく完了した。なお、人間と目的もなく普通に会話するなどの目標は2010年ごろまで達成されなかった[131]。他のAIプロジェクトと同様、予測は実際に可能だったものよりずっと高く設定されていた[131]。
実体を持つことの重要性: 新AIと推論の具現化
80年代末、一部の研究者はロボット工学に基づく全く新しいアプローチを主張した[132]。彼らは機械が真の知性を獲得するには「身体」が必要だと信じていた。すなわち、知覚し、動き、生き残り、世界とやりとりできる身体が必要だとした。常識推論のような高いレベルの能力には感覚運動能力が必須であり、抽象的推論は人間の能力としては興味深くないし重要でもないという主張である(モラベックのパラドックス)。彼らは知能を「ボトムアップで」構築することを主張した[133]。
このアプローチは60年代以来下火だったサイバネティックスと制御理論の考え方を復活させた。もう1人の先駆者は70年代末にMITにやってきたデビッド・マーで、それ以前に視覚の理論神経学的研究で成功を収めていた。彼は全ての記号的アプローチ(マッカーシーの論理やミンスキーのフレーム)を廃し、記号処理の前にボトムアップで視覚の物理的機構を理解する必要があると主張した。なお、マーは1980年に志半ばで白血病で亡くなった。[134]
1990年の論文"Elephants Don't Play Chess"で、ロボット工学者ロドニー・ブルックスは物理記号システム仮説を正面から扱い、「世界はそれ自身の最良のモデルである。それは正に常に最新である。知るべき詳細は常にそこにある。秘訣は適切かつ十分頻繁に世界を感知することである」と述べ、記号は常に必要とは限らないと主張した[135]。80年代から90年代にかけて、多くの認知科学者が精神の記号処理モデルを退け、推論には身体が本質的に必要だと主張し、その理論を「身体化された心のテーゼ」と呼んだ[136]。
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