三菱銀行人質事件 事件の経過

三菱銀行人質事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 13:59 UTC 版)

事件の経過

1月26日

事件発生状況

1979年1月26日、銀行の閉店時間である15時前ごろに、テラピンチ(当時、ゴルフをする際に被られていたハット・中央帽子製)を被り黒スーツに黒サングラス、白マスクの犯人こと梅川が5000万円を強奪する目的で銀行に押し入り、ニッサン・ミロク社製の猟銃(上下2連式12番口径)を天井に向けて2発発砲した。

梅川は現金をリュックサックに入れるように行員を脅したが、その際に非常電話で通報しようとした20歳男性行員を見つけ射殺(長時間意識はあったものの救出が間に合わず死亡)し、また流れ弾により男性行員と女性行員を負傷させた。観念した男性行員が現金を詰め込み、梅川は警察が到着する前に銀行から逃走する計画であったが、逃げ出した客が自転車で住吉警察署警邏課係長に通報し、事件は発覚した。

通報から籠城まで

梅川の予想より遥かに早く楠本正己警部補(52歳)が銀行に駆けつける。楠本警部補は犯人に銃を捨てるよう要求し天井に向けて威嚇発砲をしたが、梅川は楠本警部補の顔と胸を撃って射殺した(二階級特進で警視に)。その前後に店から脱出した行員が近隣の喫茶店に飛び込み110番通報を依頼、行内の別の行員も警察直通緊急通報ボタンを押して通報。直後にパトカーで駆けつけた阿倍野警察署の前畑和明巡査(29歳)と巡査長にも梅川は発砲し、前畑和明巡査を射殺した(二階級特進で警部補に)。巡査長は防弾チョッキを着ていたため無事だった(当時は予算の関係でパトカーのトランクには防弾チョッキが一着しか積まれていなかった)。

午後2時35分に大阪府警本部に銀行の異常事態が通知され、3分後には大阪府内の全署に緊急配備指令発令。緊急配備から2分後には捜査員や機動隊などおよそ320名が銀行を包囲し、銀行付近500メートルの道路を閉鎖。すると梅川は行員にシャッターを下ろすよう命じ、銀行の出入口を閉鎖したが、その際現場に到着していた警察官がとっさに近くにあった看板や自転車等をシャッターの下に置いたため、シャッターは40cmの隙間を残して完全には下りなかった。

シャッターが閉じられた店内には客12人と行員31人の合計43人が梅川に人質に取られたが、うち親子連れと妊婦の客4人はすぐに解放されたため、人質の人数は39人になった。また人質とは別に梅川に気付かれずに貸し金庫室などに隠れた客5人が店内に残された。店内の状況は凄惨で、梅川によって殺害された者の遺体が人質たちのそばにあったままだった。

店内の状況

銀行に籠城した梅川は、猟銃で威嚇しながら、人質たちに対して、行内の机や椅子で、非常用出口や階段を塞ぐバリケードを作らせる。また、射殺した警官が所持していた拳銃を女性行員に命じて奪わせた。バリケード完成後、全員を整列させて点呼させ、「金を用意しなかったのが悪い」と言って支店長を至近距離で射殺した。その後、梅川は、狙撃隊から自分の身を守るために、男性行員全員を上半身のみ裸、女性行員には電話係を除く19人全員を全裸にさせ、『肉の盾』となるよう命令する。女性行員についてはただ脱がせただけではなく、じりじりと楽しむように服の脱ぎ方の順番までも指示していった。行員はトイレに行くことも許されず、カウンターの隅で済ませるしかなかった。その後、梅川は、片親の女性行員1人にのみ服を着ることを許している。

やがて、梅川は、こういう状況の中でも沈着冷静な最年長の男性行員に対して、生意気だと怒り再び猟銃を発砲した。同行員はとっさに身体をずらし銃弾は急所をはずれたが、右肩に被弾し重傷を負った。同行員は態度だけが理由で撃たれたわけではなく、バリケードを作る際に梅川を怒らせまいと周りの銀行員たちを励まし指示しており、これを覚えていた梅川が後々抵抗されると厄介だと判断したことも狙われた理由とされている。梅川は別の男性行員に、ナイフでとどめをさして肝を抉り取るように命じるが、命令された行員は年長行員を守るために「もう死んでいる」と嘘をついた。すると、梅川は、映画『ソドムの市』で死人の儀式を行うワンシーンの話を出した上で、「そんならそいつの耳を切り取ってこい。死んでるなら切れるだろ」とナイフを差し出して新たな命令を出す。命じられた行員は激しく抵抗したが、散弾銃で撃たれた者の遺体と猟銃で狙われている恐怖により応じた。死んだふりをしていた年長行員は命じられた行員が来ると「かまわん」と小声で言う。命じられた行員は小声で何度も「すみません」と泣きながら耳元で呟き左耳を半分切除した。そして、その耳を梅川に差し出した。しかし、梅川は、耳を口にすると、まずいと言って吐き出した。耳を切り取られた年長行員は、失神し多量の出血となったものの事件解決後の緊急治療により、一命を取りとめた。また、撃たれた右肩は治療で二の腕にかけて人工骨が入れられ、12粒ほどの銃弾が摘出不能のために体内に残ったままとなった[注釈 2]。年長行員は、激痛から夜明けに目覚め、左耳から流れる血液で、「○(妻の名前をイニシャルで書く)ツヨクイキロ コドモタチモツヨクイキロ」と遺言を書くも、後から流れ出る血液で遺言は消えてしまったと後にマスコミのインタビューに答えている。

その後梅川は、行員らに向けて威嚇発射をするなどいたぶって喜んでは、些細なことで癇癪を起こして「殺すぞ」と怒鳴りながら、真剣な顔をして銃口を突きつけたりした。

警察の対策

銀行前に展開した特型警備車F-7型など

事件をうけて警察は銀行の2階の事務室に現地本部をかまえた。当時の大阪府警本部長の吉田六郎大久保清事件山岳ベース事件などの事件発生時に群馬県警本部長として捜査にあたり、本事件では自らが現地本部長を務めた。本部となった銀行2階の事務室から1階の梅川と電話で会話できるようホットラインを設置。外から当初パトカー113台、警官644名が銀行を包囲、銀行の半径1km内の交通をすべて遮断。本部は銀行の図面から、建物の北と東のシャッターと2階のドアなどに手動のドリルで小さな穴を7つ開け、外から中の様子を観察しようと試みた。午後6時半、ようやくひとつの穴から行内が見渡せるようになったが、店内は警官や行員の遺体が転がり、そのそばで「肉の盾」が動いている異様な光景が見えた(このシャッターの穴から見えた梅川の写真は後に毎日新聞がスクープ報道する)。そのほかに現金自動支払機を動かしその隙間からも室内を偵察していた。また店内放送のスピーカーの回線を逆にして梅川と人質の会話を傍受することに成功した。

吉田はこの年の3月で退官する予定だったが、事件発生当時は2府2県本部長会議の出席のため京都へ出張しており、吉田が出張先から戻るまでの間は刑事部長だった新田が現場指揮にあたった。吉田が出張先から大阪へ戻った時点でも梅川の素性は不明であったが、深夜岐阜県多治見市内で職務質問された男の自供から、梅川に頼まれてライトバンを盗んだこと、さらには銀行強盗の相棒を頼まれたが断ったこと、短気で感情を爆発させると何をするかわからない性格であることを多治見署ですべて供述していたことで梅川の素性が判明した。また男の証言から、梅川が15歳で強盗殺人の罪を犯し少年院送致されていたことが判明する。

夜、梅川が要求した400グラムのサーロインステーキとワインが届けられる。人質にはカップラーメンが差し入れられたが、「栄養がない」と梅川が怒り、代わりにサンドイッチや胃薬が差し入れられた。このカップラーメンは後に梅川が食べている。午後9時半、ひどい風邪をひいていた女性行員が解放された。警察は梅川が要求したビーフステーキに睡眠薬を入れることを検討したが、捜査員がステーキソースに液体の睡眠薬を混ぜて味見したところ、舌先に刺激を感じたこと、なにより梅川は用心深く、毒の混入を警戒し差し入れられた食事は全て人質に毒味をさせていたため、警察はこの方法を断念している。

1月27日

日付は変わり、しばらく膠着状態が続いていたが午前2時頃、人質の客(76歳男性)がトイレに行かせてくれと申し出たところ梅川は年齢を聞くと解放。同じ頃、捜査本部は銀行の3階の女子更衣室に作戦指揮室を開設して指揮に当たった。

数時間後、ラジオの差し入れが遅いことに腹を立てた梅川はロッカーに向けて発砲。流れ弾により客と男性行員の2人が負傷。夜明け前にラジオが差し入れられ、そのラジオのニュースで自分の実名が誤った読み方で報道されていたことに激怒し、捜査本部に「俺の名前はテルミやない!アキヨシいうんや!報道のやつらにアキヨシだと言っておけ!」と言い放った。

1月27日の午前8時前に人質の客(41歳女性)が解放、9時30分には退職した大阪府警察本部捜査第一課の元刑事(57歳男性)が解放される。梅川に職業を聞かれた元刑事は身分を大工と偽っていたが、梅川はまったく疑わなかった。だがラジオが差し入れられてから、いつ梅川が自分の嘘に気づいて激怒して猟銃を発射するかと思うと生きた心地がしなかったと、マスコミのインタビューで述べている(事件が解決するまで、この事実は公表されなかった)。

10時半頃、梅川の母親と亡き父の弟が捜査本部に到着し説得を始めるも梅川が電話を切ったため失敗。手紙で母親が説得すると梅川はトイレの使用を認めるようになった(20秒ほどであり、梅川本人は床に紙を敷いて済ませていた)。用を足しにきた行員らに、警察は2階から励ましたり作戦計画を伝えていた。梅川は全員に服を着ることを許可して、昼までに2人の人質(いずれも女性客)を解放した。

その後差し入れられた朝刊を女性行員に朗読させ、銀行にあった500万円の現金を用意させると、梅川は借金の支払い先を書いたメモを男性行員に渡し、借金を返済してくるよう命じる。午後1時半、弁当の差し入れと引き換えに人質の客(24歳女性)を解放。午後3時前、梅川の借金返済のため男性行員がハイヤーで出発し(同日午後10時ごろ銀行に帰る)覆面パトカーが追跡。ハイヤーに乗った男性が人質の銀行員らしき情報が報道陣に流れるも、この借金返済についてマスコミが知ったのは事件解決後であった。また、この借金返済は法律上無効であり、借金返済の金は警察により回収され銀行に戻された。

午後3時半、リポビタンDの差し入れの後に人質の客(19歳女性)解放。しばらくして行員の申し出により3人の男性行員の負傷者が解放される。3人のうち2人は大阪府立病院に、残る1人は阪和記念病院救急車で搬送。それから1時間後の午後5時前、最後の人質の客(25歳男性)を解放。梅川はこの人質が最もお気に入りだったらしく、この人質をKちゃんと愛称で呼ぶほどだった。午後6時、梅川に気づかれずに隠れていた客(合計5人)が、応接室、貸し金庫室、カウンターから捜査員の誘導により無事に脱出した。梅川は5名の存在も脱出も知らなかった。この際民間の錠前技術者が捜査本部の要請により技術協力し通用口等の鍵を解除、脱出支援を行った。

梅川は月見うどん、マカロニグラタンポタージュスープローストビーフなどの夕食とボルドーワインシャトー・マルゴー(当時、このワインの名を知る者は少なかった)を要求したが、銀行の向かいの酒屋にこのワインがなかったため、シャトー・ランゴア・バルトンとなる。午後7時、梅川がシャッターの穴に気づき、行員に穴を塞ぐように命じる。だが東のシャッターの穴だけは唯一、気づかれず事件終結までこの穴から梅川や行内の監視が続けられた。深夜、遺体の腐敗臭が強くなると、梅川と行員が協力し合って遺体を移動させる。1月28日の午前0時から、捜査本部は人質の苦痛はすでに限界と判断して突撃作戦を開始する。午前2時3分、救急隊員が行内に入り遺体を搬出。警察はこの時の混乱に乗じて梅川を狙撃逮捕する作戦を練ったが、梅川は人質の男子行員に自分の服を着せ、弾を抜いた猟銃を持たせ、自分は人質の服を着て拳銃を持ち人質に紛れ込む偽装工作をしていた。

1月28日

特殊部隊の突入

朝から機会を伺っていた警察は、人質の見張り役が前夜外出した行員と交代した直後、突入準備を開始した。トイレに来た行員から「今回はチャンスがあると思うので合図しますからよろしく」との伝言を受け、大阪府警察本部警備部第二機動隊・零中隊(SAT前身部隊)に待機させた。直後、梅川の至近距離にいて射撃の際に被弾する可能性のあった女性行員がお茶を入れるために離れた。のぞき穴から監視していた警察官からの報告を受け、吉田本部長は強行突破を指示した。零中隊員7名は、トレーニングウェアを着用して匍匐前進で侵入した[注釈 3]

1月28日午前8時41分、警察の作戦を知らされていた唯一の男性行員が、新聞を読みながら居眠りをし猟銃から手が離れていた梅川を確認、警察に掌を上下させ合図した。その直後、7名の零中隊員が人質に「伏せろ!」と叫ぶとともにバリケード代わりのキャビネットの隙間からカウンター内に突入する。零中隊員は拳銃[注釈 4] で計8発を発射し、そのうち3発が梅川の頭と首、胸に命中、梅川は床に崩れ落ちた。担架で固定された瀕死の梅川を逆方向にして、前を救急隊員、後ろを刑事が担いで運び出すが、救急車にたどりつく寸前で後方の刑事が転倒した。梅川は天王寺区大阪警察病院に搬送、意識不明の重体であったが脳波は確認され、2600㏄の輸血と銃弾の摘出手術を受けるも、右の頸部の貫通銃創が致命傷となり同日午後5時43分に死亡が確認された。梅川は人質に自分の服を着せて、弾を抜いた猟銃を持たせるという偽装を行い、自身は人質の服を着て人質の中に紛れ込み「人質解放や!」と叫んで混乱に乗じ脱走する計画を練っていたが、これは警察に見抜かれていた。

この事件の解決のため、大阪府警察本部刑事部は、現地本部に100名を派遣。時間外勤務手当6000万円、給食費220万円、梅川の入院治療費90万円など1億800万円の費用が投入された。殉職した二名の警察官は二階級特進となり、警察以外に内閣総理大臣と関西財界から2000万円が贈られたほか、一般人3000人から3000万円が寄贈された。


注釈

  1. ^ 1996年東京銀行との合併で東京三菱銀行へ商号変更。2006年に東京三菱銀行とUFJ銀行との合併で三菱東京UFJ銀行に商号変更した後、2018年に三菱UFJ銀行に商号変更。
  2. ^ 耳を切り取った行員の行為自体は傷害罪の構成要件に該当するものであるが、事件の状況と年長行員が被害届を出さなかったことを考慮し、立件はされなかった。
  3. ^ 『戦慄 昭和・平成裏面史の光芒』(著者麻生幾、新潮社、1999年)によれば、大阪府警察本部の零中隊は事件当時、専用のアサルトスーツ(突入服)を装備していたが、部隊の存在を秘匿するため突入服を着用せず、代わりにトレーニングウェアを着用したと記載されている。
  4. ^ 『戦慄 昭和・平成裏面史の光芒』(著者麻生幾、新潮社、1999年)によれば、この時、零中隊が使用した拳銃はスミス&ウエッソン(S&W)社製の45口径拳銃だったと記載されている。 事件当時の警察が使用していた拳銃で該当するものは、S&W社の「M1917」回転式拳銃である。この銃はニューナンブM60が配備される以前に、米軍から支給されたものである。
  5. ^ 本事件発生当時、読売テレビを除く在阪3局は、すでにローカルワイドニュースを平日に編成していた(毎日放送『MBSナウ』、朝日放送『たいむ6』、関西テレビ『アタック630』)。
  6. ^ 本来は兵庫県が放送対象地域であるが、スピルオーバーにより大阪府も視聴可能地域となっている(当時、テレビ大阪は未開局)。
  7. ^ 前年暮れの1978年12月28日に発生。

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