モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルの概要

モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 13:56 UTC 版)

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モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル
Maurice Couve de Murville
1964年5月12日
生年月日 (1907-01-24) 1907年1月24日
出生地 フランス マルヌ県ランス
没年月日 (1999-12-24) 1999年12月24日(92歳没)
死没地 フランス パリ
出身校 パリ政治学院
パリ大学
所属政党 共和国民主連合(UDR)
配偶者 ジャクリーン・シュヴァイスガス
子女 3人
サイン

在任期間 1968年7月10日 - 1969年6月16日
大統領 シャルル・ド・ゴール

内閣 第4次ジョルジュ・ポンピドゥー内閣
在任期間 1968年5月31日 - 1968年7月10日
大統領 シャルル・ド・ゴール

その他の職歴
フランス
初代外務大臣

1958年6月1日 - 1968年5月30日
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生涯

1907年1月24日にマルヌ県ランスに誕生する。生家はプロテスタントの旧家で、1925年までクーヴ家を名乗っていたが、彼の父の代になって、ド・ミュルヴィルを付け加えた。

1922年にコンクール・ジェネラルを受験。後のパリ政治学院パリ大学を卒業後、1930年会計検査院に入省。1940年ヴィシー政権が成立すると対外財務担当長官に就任する。1943年3月にアメリカ軍が北アフリカに進出すると、ヴィシー政権から離れ、自由フランスに投じた。ヴィシー政権の高官では数少ない1人である。クーヴ・ド・ミュルヴィルはスペイン経由でアルジェに逃亡し、ここでアンリ・ジロー将軍の指揮下に入った。1943年6月7日にフランス国民解放委員会(CFLN)財政担当委員に就任し、2ヶ月後にシャルル・ド・ゴールと合流して1945年フランス共和国臨時政府(GPRF)で大使級となってイタリアに派遣された。

戦後は1950年に駐エジプト大使、1954年北大西洋条約機構NATO)担当大使、1955年に駐アメリカ大使、1956年にドイツ大使を歴任する。1958年にシャルル・ド・ゴールが政権に復帰すると、外務大臣に任命される。以後ミシェル・ドブレと交代するまで10年の長きに渡って外務大臣職にあって、ド・ゴール主義に基づく独自外交を展開した。1968年に蔵相を短期間務めた後、ジョルジュ・ポンピドゥーの後任として首相に就任する。ポンピドゥーが大統領に当選し、首相をジャック・シャバン=デルマスと交代した。

その後もド・ゴール派の議員として活躍し、共和国民主連合、共和国連合に所属した。1986年上院議員(元老院議員)となり、1995年まで務めた。1999年パリで92歳で死去した。

関連図書

著作物

  • Une politique étrangère, 1958-1969 (1971). ISBN unknown
  • Le Monde en face (1989). ISBN 2-259-02222-7



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