メキシコ麻薬戦争 歴史

メキシコ麻薬戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 10:30 UTC 版)

歴史

メキシコの地理的関係

メキシコは、その地理的位置関係から麻薬の積み替え地に使われており、メキシコや南アメリカ、その他の地域から不法入国した移民と密輸品がメキシコ経由でカリフォルニア州からテキサス州を中心に、広くアメリカ合衆国へと運ばれた。

1980年代から1990年初頭にかけて、コロンビアのパブロ・エスコバルは大規模なコカインの輸出を行っていた。1982年にアメリカが断行した麻薬掃討作戦以後、南部フロリダおよびカリブ海地域での取り締まりが強化されると、コロンビアからフロリダへの密輸は、極めて難しい状況となった。

コロンビアとメキシコの協力

コロンビアの組織は、メキシコの密売人たちと協力関係を結び、メキシコ経由でアメリカにコカインを輸送することを試み、成功した[50]アメリカ=メキシコ国境は、全長3,141kmにも及び、国境上にはリオグランデ川、ソノラ砂漠、国境都市が存在する。そのうえ、年間数億人が横断する国境では、麻薬の密輸を完全に防ぐことは、極めて困難である。

こうした条件が、コロンビアからメキシコを経由してアメリカへ至る密輸ルートの確立を可能にした。現在では、カリブ海ルートよりも、この米墨国境ルートを用いた麻薬密輸が大半を占め、アメリカで流通するコカインの9割はメキシコを経由していると言われている 。

メキシコが長くヘロインと大麻の主要生産地であったこともありこの協力は成功し、1980年代中頃までにメキシコの密売組織は、コロンビアからのコカインの輸送者として安定した信頼を得ていた。始めはメキシコのギャング達は密輸サービスの対価として現金を受け取っていたが、1980年代後期になるとメキシコの輸送組織とコロンビアの麻薬密売人は支払協定に同意し、メキシコの輸送組織にはコカインの出荷量の35から50 %が与えられるようになった。

この取り決めは、メキシコの組織がコカインの輸送のみならず販売にまでも関わるようになったことを意味しており、自らの権利のための強力な商人となったことを意味している。現在では、シナロア・カルテルとガルフ・カルテルは世界的な密売コカインの市場までをもコロンビアから買収するまでに至っている[51]

時間と共にメキシコの様々な麻薬カルテル間の力の均衡は変化しており、新興勢力の台頭と古い勢力の衰退が起こっている。カルテルのリーダーの死亡や逮捕等による組織の混乱が起こると、それによって生じる力の空白を利用しようとライバル組織が動いて流血が引き起こされる[52]。指導者の空白状態は特定のカルテルに対する法の執行によって作り出される。

このため、カルテルはメキシコの司法当局を買収してライバルのカルテルに対する訴訟を起こさせたり、メキシコ政府やアメリカの麻薬取締局 (DEA)にライバルのカルテルの情報を漏洩するなどして、互いに法の執行を利用しようとしている[52]

カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領

多くの要因が暴力の拡大に貢献しているが、メキシコの都市のセキュリティーアナリストは、制度的革命党(PRI)によって管理された、メキシコ政府と麻薬密売組織との間に存在した「長年の暗黙の了解」が、1980年代後半以降に、冷戦終結によりアメリカがメキシコの反共独裁政党である制度的革命党を支援する必然性が無くなったことが、不幸の増加の原因であると見ている[53]

この「暗黙の了解」が解消されるきっかけは、制度的革命党の腐敗堕落した政治家側にもあった。制度的革命党選出の大統領であったカルロス・サリナス・デ・ゴルタリは、汚職追放を推し進めることを公約したことなどから高潔な「改革派」として保守派以外からの幅広い層からも高い支持を受けており、またアメリカとカナダとの貿易協定「北米自由貿易協定(NAFTA)」を推し進めた。しかし、大統領現職時代より兄弟を通じてカルテルに関わっていることが噂となり、大統領辞任翌年の1995年1月には、実のラウル・サリナスが麻薬取引に関与して逮捕されたことを受け、同年3月にはアメリカに亡命した。

敵対する麻薬カルテル間の闘争は、1989年にメキシコでコカイン会社を経営していたミゲル・アンヘル・フェリクス・ガジャルド英語版の逮捕後に本格的に始まった[54]。1990年代の後期の間は抗争が小康状態にあったが、2000年以降、暴力は着実に深刻化している。実際に、カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領末弟のエンリケ・サリナスが、2004年12月にメキシコ最大の麻薬カルテルの「ガルフ・カルテル」と緊密な関係にあったと噂されていた他の麻薬カルテルによって暗殺されている

ビセンテ・フォックス・ケサーダ大統領

2000年にビセンテ・フォックス・ケサーダ大統領は川の対岸をアメリカと接するタマウリパス州ヌエボ・ラレドへと軍を派遣したが、それは暴力事件の増加を招くことになった。その後の2005年1月から8月の間に、ガルフ・カルテルおよびシナロア・カルテルの抗争によりヌエボ・ラレドの街では110人が死亡したと伝えられている[55]。また同年、ラ・ファミリア・カルテルがミチョアカン州内での勢力拡大を計ったことにより事件が急増した。

フェリペ・カルデロン大統領

麻薬組織間の暴力行為は麻薬戦争が始まるずっと以前から起こっていたが、1990年代から2000年代前半にかけては、カルテルの暴力に対して政府は受け身のスタンスを保持した。2006年12月11日、新しく選ばれたフェリペ・カルデロン大統領が麻薬組織による暴力を終わらせるために6,500人の連邦国軍をミチョアカン州に派遣したことで、政府のスタンスが変化した。この行動は、犯罪組織に対する初めての大きな行動であると考えられており、通常、政府と麻薬カルテルとの間の戦争の開始点であると見られている[1]。時が経つにつれ、カルデロンは反麻薬キャンペーンの拡大を継続するため、現在では45,000人の軍とそれに関与して加わった州兵および連邦警察官を動員している。2010年にカルデロンはカルテルが「政府にとって代わる」事を求めており、「武器による独占を強要しようとし、彼ら自身の法律を強要しようとさえしている」と述べた[56]

紛争の激化

ランダム・チェックポイント(en)で活動中のメキシコ軍(2009年)
ミチョアカン州でのメキシコ軍による逮捕劇
ミチョアカン州アパチンガンにおけるメキシコ軍(2007年)

2008年4月、バハ・カリフォルニア州における反麻薬キャンペーンの担当者だったセルジオ・アポンテ将軍は地元の警察に対していくつかの横領の申し立てを行った。アポンテはその申し立ての間に、バハ・カリフォルニア州の誘拐対策班が実は犯罪組織の誘拐チームと共に働いていると考えており、その買収された警察官が麻薬密売のボディーガードとして使われていると述べた[57]。これらの腐敗の告発によって、贈収賄や脅迫、腐敗によってメキシコの麻薬組織に対する進展が妨害されていたことが暗示された。

2008年4月26日、バハ・カリフォルニア州のティフアナ市において、ティファナ・カルテルとシナロア・カルテルのメンバーの間で大きな戦闘が起こり、17人の死者を出した[58]。この戦いはまた、ティファナ市およびいくつかの国境都市が戦争によって暴力のホットスポットとなることで、アメリカへ暴力が拡大されるのではないかという懸念をもたらした。2008年9月、モレリアでカルテルのメンバーを容疑者とする手榴弾攻撃が起こり、8人の一般人が死亡し、100人以上が負傷した。

2009年3月には、カルデロン大統領はさらに5,000人のメキシコ軍を招集し、シウダー・フアレスに派遣した。アメリカ国土安全保障省はアメリカに国境を越えて溢れ出してくるメキシコの麻薬による暴力に対抗するために国境警備隊を用いることも考えていると述べた。アリゾナ州およびテキサス州の知事は、連邦政府に対して、既にそこで活動している麻薬密売に対する地域の警察組織を支えるために、国境警備隊の部隊のさらなる派遣要請を行った[59]

アメリカ麻薬情報局 (en, NDIC)によると、メキシコのカルテルは南米のコカインとメキシコで生産された大麻、メタンフェタミンおよびヘロインの支配的な密輸業者および卸売業者である。メキシコのカルテルは以前から存在したが、コロンビアにおけるメデジン・カルテルおよびカリ・カルテルの終焉によって近年ますます力をつけてきた。フロリダを通じてのコカイン密売ルートの閉鎖によってコカインのルートがメキシコ側にプッシュされたことも、コカイン密売におけるメキシコのカルテルの役割を増大させた。メキシコのカルテルは、コロンビアやドミニカ共和国の犯罪グループによって制御される地域でこれらの麻薬の販売を行い、メキシコのカルテルの勢力圏を拡大しており、現在そこにはアメリカの大部分も含まれると信じられている[60]

メキシコのカルテルは、現在アメリカにおける麻薬密売を支配する強力な暴力組織となっており、もはやコロンビアの生産者は単なる仲介となっている。FBIによると、メキシコのカルテルは卸売の供給にのみ集中しており、違法薬物の小売販売はストリートギャングに任せている。伝えられるところにおいては、メキシコのカルテルはアメリカのギャング紛争において、一方に味方せず、複数のギャングの要求によって働くとされている。

メキシコのカルテルはメキシコの領域と何十もの自治体の大きな面積を勢力圏におき、メキシコの選挙によって政治的に影響力を増大しようと働きかけている[61]。カルテルは、ヌエボ・ラレドからサンディエゴまでの密輸ルートのキーポイントにおいて激しい縄張り争いを行っている。メキシコのカルテルは刺客シカリオスとして知られる暗殺者のグループを使用する。アメリカの麻薬取締局は、今日国境に沿って活動しているメキシコの麻薬カルテルは、アメリカの警察史上他のどの犯罪者組織よりもはるかに危険で洗練されていると報告している[60]。カルテルはグレネードランチャーや自動兵器、ボディアーマーを使用し、時に戦闘用ヘルメットも用いる[62][63][64]。また、いくつかの組織では即席爆発装置 (IED)を使うことも知られている[65]

犠牲者数は時と共に大幅に増加した[65]ストラトフォーの報告によると、麻薬戦争に関係した死者は2006年に2119人、2007年には2275人であったが、2008年には5207人と2倍以上になった。次の2年に渡っては、さらに数が大幅に増加し、2009年には6598人、2010年には11,000以上の死者が出ている[65]

2017年の政府公表の殺人事件の件数は、25,339件と麻薬組織の抗争を反映して過去最悪の水準となった[66]

2010年代後半には、ハリスコ新世代カルテルなどの新勢力台頭。2020年6月には、従来、抗争とは無縁であったメキシコ市内で、治安庁長官が乗った乗用車が武装組織に襲撃を受ける事件も発生した。長官は負傷するにとどまったが警護と一般人の3人が死亡している[67]







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