ペーローズ1世
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治世
アルバニアの反乱と飢饉
ペーローズ1世とホルミズド3世の後継者争いの最中にコーカサス地方のアルサケス朝アルバニア王国の王であるヴァチェー2世(在位:440年 - 462年)がサーサーン朝の混乱に乗じて独立を宣言した[12]。ヴァチェー2世はフン族にカスピ海沿いのデルベントの通過を認め、フン族の支援を受けてペルシア軍を攻撃した。これに対しペーローズ1世もフン族にコーカサス山脈を越えるダリアル峠の通過を許すことで応じ、その後これらのフン族はアルバニアを荒らし回った[13]。結局、双方の王は協定の交渉を始めた。ヴァチェー2世はペーローズ1世の姉妹であった母親と自分の娘(両者ともキリスト教徒であった)をペーローズ1世へ引き渡し、一方で元々は父親から相続資産として分け与えられていたサーサーン朝出身者からなる1,000世帯の家族を手に入れるという条件で両者は合意に達した[13]。ヴァチェー2世は462年に死去し[14]、その後アルバニアはペーローズ1世の弟で後継者のバラーシュ(在位:484年 - 488年)によって485年にヴァチャガン3世(在位:485年 - 510年)が王位に据えられるまで王が不在であった[13]。また、ペーローズ1世は451年に起こったアルメニア人の反乱の影響で父親のヤズデギルド2世によって投獄されていたアルメニア人貴族の一部を釈放した[15]。
その一方で461年頃にペルシアは深刻な干ばつに見舞われ、恐らく467年まで続いた大飢饉を引き起こした[15][16][17]。この干ばつによってティグリス川の水位が著しく低下し、泉、井戸、灌漑設備の水が干上がり、家畜が死に絶えた。飢饉が帝国内に蔓延し、農村地帯では餓死者が発生するようになった。ペーローズ1世は一時的に税の徴収を取り止め、すべての貯蔵庫を解放して民衆へ食料を配給させ、最悪の事態を回避するように努めた[18]。ただし、この大飢饉に関する記録は、危機の最中の464年にペーローズ1世がキダーラ朝に対して軍事作戦を準備したという事実(後述)を考慮すると、いくぶん誇張されている可能性がある[12]。
東ローマ帝国との関係
ペーローズ1世の治世の初期にサーサーン朝と東ローマ帝国の間の緊張が高まりを見せ始めた。460年代中頃に東ローマ帝国は将軍のアルダブリウスがサーサーン朝の宮廷と密かに連絡を取り、軍事支援と恐らくは情報提供を約束するとともにペーローズ1世に東ローマ帝国を攻撃するよう促しているという情報をつかんだ。アルダブリウスの複数の書簡が押収されて東ローマ皇帝レオ1世(在位:457年 - 474年)の手元に渡り、レオ1世はアルダブリウスを解任するとともに首都のコンスタンティノープルに召喚した[19]。ただし、召還後のアルダブリウスがどのような処分を受けたのかは不明である[20]。レオ1世はこのようなサーサーン朝の動きに対してシリアのカリニクムの要塞を含む国境地帯の防備を強化することで応じた[21]。
387年にサーサーン朝とローマ帝国の間で結ばれたアキリセネの和約以来、双方の帝国は北方の草原地帯から侵入する遊牧民の攻撃に対し、共同でコーカサス地方の防衛に対処する義務を負うことで合意していた[22]。これらの攻撃への対処はサーサーン朝側が中心的な役割を担い、一方の東ローマ帝国は不定期におよそ500ポンド(230キログラム)の金を拠出していた[23]。東ローマ帝国はこの支出を共同防衛のための協力金とみなしていたが、サーサーン朝はこれを東ローマ帝国のサーサーン朝への従属を示す貢納金とみなしていた[24]。サーサーン朝の統治者たちは建国以来、特に東ローマ帝国から貢納金を支払わせることで領土の支配権と権力を誇示してきた[25]。レオ1世はサーサーン朝とアルダブリウスの企てへの報復として金の拠出を停止した。その後は交渉が繰り返されたものの、問題の解決には至らなかった[21]。さらに東ローマ帝国は363年の条約でサーサーン朝へ割譲されていたニシビスの返還を訴えた[21][26]。このような高い緊張状態は474年にゼノン(在位:474年 - 475年、476年 - 491年)が東ローマ皇帝に即位するまで続いた。ゼノンはサーサーン朝への拠出を再開し、エフタルの捕虜となっていたペーローズ1世を身代金を支払って解放した(後述)[27]。それにもかかわらず、480年代前半には二年にわたる干ばつに苦しんでいたサーサーン朝の庇護下のアラブ部族であるタイイ族の一部が東ローマ帝国の領内を襲撃したことで戦争が起こりかけた。しかし、国境地帯に駐屯していたサーサーン朝の将軍のカルダグ・ナコラガンがすぐにタイイ族の襲撃を鎮圧し、東ローマ帝国との間の平和を維持した[28][29]。
キダーラ朝との戦い
サーサーン朝はシャープール2世(在位:309年 - 379年)の治世以来、キダーラ朝、エフタル、キオン、そしてアルハン・フンからなる「イランのフン族」として知られる東方の遊牧民の侵入に対処しなければならなかった[30]。これらの遊牧民はシャープール2世とクシャーノ・サーサーン朝の庇護下の勢力からトハーリスターンとガンダーラを奪い、最終的にはシャープール3世(在位:383年 - 388年)の治世にカーブルを奪った[31][32]。考古学、貨幣学、および印章学上の証拠から、これらの勢力はサーサーン朝にも劣らない洗練された水準で自らの領土を統治していたことが明らかとなっている。さらにはサーサーン朝の硬貨を模倣するなど、ペルシア人の帝国の象徴体系や紋章を素早く取り入れていた[33]。現代の歴史家であるリチャード・ペインは次のように述べている。「ペルシア人による破壊的なフン族、あるいはローマ人の歴史家による略奪を働く野蛮人といった説明とは程遠く、ペルシア人による支配が失われて以降におけるこれらの中央アジアのフン族の王国は、都市を基盤とし、税を徴収し、思想的にも革新的な国家であり、諸王の王たちはこれらの勢力を追い払うことが困難であると感じていた」[34]。さらに、サーサーン朝は451年にサーサーン朝統治下のアルメニアで起こった反乱によってアルメニア人で構成された騎兵部隊を失い、これらの東方の敵を牽制する能力を弱めていた[35][36][注 2]。
5世紀前半にヤズデギルド1世(在位:399年 - 420年)、バハラーム5世(在位:420年 - 438年)、そしてヤズデギルド2世がキダーラ朝に対する貢納金の支払いを強いられたことで、サーサーン朝の努力は大きく傷つけられていた[25][37]。これらの支出はサーサーン朝の国庫を苦しめる程ではなかったものの、それでもなお屈辱的なものであった[38]。ヤズデギルド2世は最終的に貢納金の支払いを拒否したが、このことは後にキダーラ朝が464年頃にペーローズ1世に対して戦争を宣言した際の口実として利用されることになった[37][39]。ペーローズ1世はこの戦争を遂行するための十分な人的資源を欠いていたために東ローマ帝国に財政支援を求めたものの、東ローマ帝国はこの要求を拒否した[40]。その結果、ペーローズ1世はキダーラ朝の王であるクンハスに和平と自分の姉妹の一人との縁談を持ち掛けたが、実際には姉妹ではなく代わりに身分の低い女性を送り込んだ[40]。
しばらくした後にクンハスはペーローズ1世に騙されていたことに気付き、軍備を強化するための軍事専門家の派遣を要請することで同じようにペーローズ1世を騙そうとした[40]。300人の軍事専門家の一団がバラーム(恐らくバルフと考えられる)のクンハスの宮廷に到着すると、これらの者たちは殺されるか外見を傷つけられた。クンハスはペーローズ1世による合意への裏切りのためだと伝えて残った者たちをペルシアへ送り返した[40]。一方で同じ頃にペーローズ1世は、エフタルやトハーリスターンの東部に位置するカダグの支配者のメハマを含む他のフン族と同盟を結んでいた[41]。そして466年にこれらの勢力の支援によってキダーラ朝を打ち破り、短期間ではあったもののトハーリスターンをサーサーン朝の支配下に置くとともにバルフで金貨を発行した[33][42]。金貨の様式はキダーラ朝のものをほぼ踏襲しており、第二の王冠を被っているペーローズ1世の姿が描かれている[43][44]。また、金貨の銘文にはバクトリア語でペーローズ1世の名前と称号が記されている。翌年の467年にはサーサーン朝の使節がコンスタンティノープルを訪れ、キダーラ朝に対する勝利を伝えた。468年に中国の北魏に派遣されたサーサーン朝の使節も同様にこの勝利を伝えた可能性がある[19]。
キダーラ朝はその後もガンダーラと恐らくはソグディアナも支配していた。しかし、最終的にガンダーラはアルハン・フンに、ソグディアナはエフタルに征服された[45]。バクトリアの年代記によれば、メハマはその後「名高く成功した諸王の王ペーローズの総督」の地位に昇った[9]。しかしながら、トハーリスターンでは権力の空白が続いたことで、メハマは自治権を得るか独立をも獲得した可能性がある[9]。
対エフタル第一次・第二次戦争
ペーローズ1世とエフタルの戦争に関する情報は、同時代史料であるシリア語で書かれた『塔登者偽ヨシュアの年代記』と東ローマ帝国の歴史家であるプロコピオスの記録によって伝えられている。しかしながら、どちらの史料にも誤りや情報の欠落が多くみられる。偽ヨシュアによれば、ペーローズ1世はエフタルと三回戦争をしているが、これらの戦争に関する記述はごく僅かである。一方のプロコピオスによる説明は詳細であるものの、二つの戦争についてしか触れていない[46]。現代の多くの歴史家はペーローズ1世がエフタルと三回戦ったことに同意している[46][47][48]。
キダーラ朝が放逐されたことで、その従属勢力であったエフタルはトハーリスターン東部に拠点を築き、権力の空白に乗じてトハーリスターン全域に支配を広げた[49]。エフタルの首都はトハーリスターン東部のクンドゥーズの市街地付近であった可能性が最も高く、中世の学者のビールーニー(1048年没)はその場所をワル=ワリズと呼んでいる[49]。エフタルの王はしばしばフシュナヴァーズという名前を与えられているが、イラン学者のホダーダード・レザーハーニーによれば、これは恐らくエフタルの王たちが用いていた称号であり、イフシードやアフシーンといった当時の中央アジアで用いられていた他の称号に類似するものであった[50]。ペーローズ1世はエフタルの拡大を阻止するべく474年にエフタルを攻撃したが、グルガーンの国境付近で奇襲に遭い捕らえられた[51][52]。東ローマ皇帝ゼノンは身代金を支払ってペーローズ1世を解放し、サーサーン朝とエフタルの良好な関係の回復に手を貸した[52]。プロコピオスによれば、フシュナヴァーズはペーローズ1世の解放と引き換えに自分の前で平伏すように要求した。ペーローズ1世は祭司たちの助言に従って夜明けにフシュナヴァーズに会い、フシュナヴァーズの前で平伏したように見せかけたが、実際には昇る太陽、すなわち太陽神ミスラの前に平伏した[47][52][53]。
ペーローズ1世は470年代末か480年代初頭にエフタルに対する二度目の軍事行動に乗り出したものの、再び敗れて捕らえられる結果に終わった。捕虜となったペーローズ1世は身代金として30頭のラバに積み込んだドラクマ銀貨を支払うと申し出たが、20頭分しか支払うことができなかった。残りの金額は用意できず、残金が支払われるまでの人質として482年に末子のカワード(後のカワード1世)をエフタルの宮廷に送った[49][51][54][注 3]。リチャード・ペインは、「この時に要した金額は古代末期の外交的な協力金や国家歳入と比較すれば僅かなものだった。しかし、ペルシアの宮廷からフン族に貢物を届けるキャラバンについての噂は、ペルシアと地中海世界を通じてガリアのシドニウス・アポリナリスの所まで広まった」と述べている[37]。この後、フシュナヴァーズは鳥翼と三つの三日月型の形状物を配した王冠を被った自身の硬貨を鋳造したが、これはペーローズ1世の第三の王冠であり、エフタルの王が自分をペルシアの正当な支配者と見做していたことを示している[37][56]。ペーローズ1世はラバ10頭分の銀貨を調達するために臣民に人頭税を課し、エフタルに対する三度目の軍事行動(後述)を起こす前にカワードを解放させた[54]。
アルメニアとイベリアの反乱
コーカサスではサーサーン朝の統治下にあったアルメニアとイベリアもアルバニアと同様にゾロアスター教を信奉するサーサーン朝の支配に不満を抱いていた。アルメニアではヤズデギルド2世がキリスト教徒の貴族にゾロアスター教への改宗を強いて官僚機構に組み込む政策をとったが、その結果、451年にアルメニアの軍事指導者のヴァルダン・マミコニアンに率いられた大規模な反乱を引き起こすことになった。サーサーン朝はアヴァライルの戦いで反乱軍を破ったものの、反乱の影響はいまだに残っており、緊張が増し続けていた[58][59][60]。一方、イベリアではペーローズ1世がアルメニアとイベリアの境界地帯に位置するグガルクの総督(ビダフシュの称号で知られる)のヴァルスケンに好意的な態度を示していた。グガルクを支配するミフラーン家に属していたヴァルスケンはキリスト教徒として生まれたが、470年にサーサーン朝の宮廷に赴いた際にゾロアスター教へ改宗し、忠誠の対象をキリスト教国のイベリアの君主(コスロー朝)からサーサーン朝へ移していた[61][62]。また、改宗への褒美としてアルバニア総督の地位を得るとともにペーローズ1世の娘と結婚していた[63]。ヴァルスケンは親サーサーン朝の立場を取り、最初の妻でヴァルダン・マミコニアンの娘であったシューシャニクを含む家族の者をゾロアスター教に改宗させようとしたが、シューシャニクは改宗を拒否してヴァルスケンに殺害され、殉教者となった[63][64][65]。ヴァルスケンの政策はイベリア王のヴァフタング1世(在位:447年または449年 - 502年または522年)にとっては受け入れ難いものであり、最終的にヴァフタング1世はヴァルスケンを殺害し、その後482年にサーサーン朝に対する反乱を起こした[66]。また、ほぼ同時期にアルメニア人もヴァルダン・マミコニアンの甥にあたるヴァハン・マミコニアンの指導の下で反乱を起こした[67]。
同年、アルメニアのマルズバーンであるアードゥル・グシュナスプは反乱から逃れてアードゥルバーダガーンに向かい、そこで7,000人の騎兵隊を組織してアルメニアに戻ったが、アララト山の北斜面側に位置するアコリでヴァハンの兄弟のヴァサク・マミコニアンに敗れて戦死した。その後、ヴァハンはサハク2世バグラトゥニをアルメニアの新しいマルズバーンに据えた[68][69]。これに対しペーローズ1世はカーレーン家のザルミフル・ハザルウフトが率いる軍隊をアルメニアへ派遣し、さらにミフラーン家のサーサーン朝の将軍であるミフラーン(家名と同名)が率いる別の軍隊をイベリアへ派遣した[70]。夏の間にミフラーンの息子であるシャープール・ミフラーンの率いる軍隊がアケスガでアルメニアとイベリアの連合軍を打ち破り、この戦いでサハク2世バグラトゥニとヴァサク・マミコニアンが戦死した[71][72]。その一方でヴァフタング1世は東ローマ帝国の支配下にあったラジカへ逃れた[65]。また、シャープール・ミフラーンがイベリアで軍隊を指揮する役割を担っていたことから、ペーローズ1世はエフタルに対する戦争へ参加させるためにシャープールの父親のミフラーンを呼び戻していた可能性がある[73]。
ヴァハンは残りの軍勢とともにタイクの山中に撤退し、そこからゲリラ戦を展開した[74]。シャープール・ミフラーンはアルメニアに対するサーサーン朝の支配を回復したものの、その後クテシフォンの宮廷に召還された。その結果としてヴァハンはアルメニアの首都であるドヴィン一帯の支配を取り戻し、そこに要塞を築いた[75]。483年にザルミフル・ハザルウフトに率いられたサーサーン朝の増援部隊がアルメニアに到着し、ドヴィンを包囲した。兵力ではるかに劣っていたヴァハンの部隊は敵軍に奇襲を仕掛け、マークーに近いネルセアパテにおける戦闘でサーサーン朝軍を破った[76]。そして再び東ローマ帝国との国境に近い山中に撤退した[71][77]。ヴァハンは東ローマ帝国と衝突する危険を避けるためにサーサーン朝軍が撤退先まで追撃してこないことを願ったものの、ザルミフルは夜間の行軍の末にアルメニア軍の野営地を襲撃し、何人かの公女を捕らえることに成功した。ヴァハンとその部下のほとんどはさらに山奥へ撤退した[78]。
しかしながら、その後の予期せぬ情勢の変化が戦局を大きく変えた。484年にエフタルと戦争中であったペーローズ1世が戦死(後述)したことでサーサーン朝の軍隊はアルメニアから撤退した[71]。ペーローズ1世の兄弟で後継者となったバラーシュはヴァハンと講和してヴァハンにハザールベド(大臣)の地位を与え、後にはアルメニアのマルズバーンに指名した[79]。イベリアでも同様に和平が成立し、ヴァフタング1世は自身の手による統治を回復することができた[80]。
対エフタル第三次戦争と戦死
ペーローズ1世は貴族や聖職者たちの忠告に逆らってグルガーンでエフタルに対する三度目の遠征の準備を始めた[81][82][83]。ガザル・パルペツィは、ペルシア軍はほとんど反乱を起こす寸前になるほどエフタルと対峙する可能性を前にして士気を失い、兵士たちがこの軍事作戦に反発していたことを強調している[84]。ペーローズ1世は兄弟のバラーシュを残して帝国の統治を任せ[85]、484年に大軍を率いてエフタルへの軍事行動を開始した[83]。ペーローズ1世の遠征を知ったフシュナヴァーズは、「貴殿は押印した文書の下で私と和議を結び、私に対して戦争を起こさないと約束した。そして我々はいずれの側からも敵意を持って踏み越えることのないように共有する境界線を定めたのだ。」という伝言とともに自分の副官を派遣した[86]。
ペーローズ1世は祖父のバハラーム5世が国境を示す標識としてオクサス川のほとりに建てた塔を移動させた[83][87]。この出来事は中世の歴史家のアブー・ハニーファ・ディーナワリー(896年頃没)とタバリー(923年没)によって言及されている。タバリーによれば、ペーローズ1世は互いに結び付けられた300人の男たちと50頭の象を塔に繋ぎ、兵士たちの前方へ引きずらせて移動させ、自分は移動する塔の後ろを歩いて祖父が結んだ講和条約を破っていないかのように装った[83]。また、ペーローズ1世と直接対決する気のなかったフシュナヴァーズは戦場を横切るように大きな塹壕を掘らせて低木やばらばらの木材で隠し、その後ろに兵を配置させた。そしてフシュナヴァーズの軍隊に突撃したペーローズ1世とその部隊は塹壕に落ちて殺害された。ペーローズ1世やその兵士たちの遺体はサーサーン朝側では回収されなかった[37][83]。多くの著名なサーサーン朝の貴族たちが戦死し[37]、その中には4人のペーローズ1世の息子か兄弟も含まれていた[51]。戦場となった場所ははっきりとしていないものの、現代の歴史家であるクラウス・シップマンは、戦闘は今日のアフガニスタンの恐らくはバルフ近郊で起こったとしている[12]。
一方でペーローズ1世を敵対的に描いている偽ヨシュアは、ペーローズ1世は塹壕から脱出することができたものの、その後、山中の岩の裂け目で餓死したか、森で野獣に殺されて食べられたのではないかとする説を示している[83]。
死の余波
戦争後に東方のホラーサーンにおけるサーサーン朝の主要都市であったニーシャープール、ヘラート、およびメルヴがエフタルの支配下に入った[88]。ペーローズ1世の娘のペーローズドゥフトと祭司を含む従者たちはフシュナヴァーズに捕らえられた[83]。ペーローズドゥフトはフシュナヴァーズと結婚して娘を産み、この娘は後にペーローズ1世の息子のカワード1世(在位:488年 - 496年、498/9年 - 531年)と結婚した[89]。伝えられるところによれば、ペーローズ1世の敗北が原因となり撤退中の軍隊に対する追撃を禁じる軍事上の規範が作られたといわれている[90]。
エフタルに対するペーローズ1世の戦争は、当時と現代の双方の歴史書において「無謀」であったと評されている[91][92]。また、ペーローズ1世の敗北と死は、サーサーン朝に政治的、社会的、そして宗教的な混乱期をもたらした[93]。帝国は衰運を極め、今やシャーハーン・シャーはエフタルの被庇護者の立場となり、貢納金の支払いを強いられた。その一方では貴族と聖職者が国家に対して巨大な影響力と権力を振るい、政治を牛耳るようになった[94]。リチャード・ペインは、「サーサーン朝の歴史上、これほどはっきりと(ペルシア帝国の)威信を傷つけた出来事はなく、当時の人々は諸王の王の無謀さに愕然とした」と述べている[92]。さらには東方におけるサーサーン朝の支配力の弱体化に乗じてネーザク・フンがザーブリスターンを占領した[95]。ペーローズ1世はインドのシンド地方で自分の名を記した金貨を鋳造した最後のシャーハーン・シャーであり、同時期にこの地方の支配が失われたことを示している[96]。
サーサーン朝ではペルシアの有力者であったスーフラーがすぐに新しい軍を立ち上げ、エフタルのさらなる成功を食い止めた[92]。カーレーン家に属していたスーフラーの一族は、神話上の英雄であるカーレーンとトゥースの子孫を称していた。両者はペルシアの王ノウザルがトゥーラーンのアフラースィヤーブに殺された後、ペルシアを救ったとされている。リチャード・ペインはこの伝承に関して「偶然と呼ぶにはあまりにもペーローズ1世の死と状況が似ている」と指摘している[92]。また、イラン学者のエフサン・ヤルシャテルは、中世ペルシアの叙事詩である『シャー・ナーメ』(王の書)において描かれているいくつかのペルシアとトゥーラーンの戦いは、ペーローズ1世とその後継者たちによるエフタルに対する戦争に基づいているように見えると指摘している[97]。ペーローズ1世の死後、特にスーフラーとシャープール・ミフラーンを中心としたペルシアの有力者たちがペーローズ1世の兄弟のバラーシュをシャハーン・シャーに推戴した[82]。バラーシュの後を継いだカワード1世は帝国を改革するとともにエフタルを破ってホラーサーンを再征服し、秩序を回復させた[88]。ペーローズ1世の死への報復は孫のホスロー1世(在位:531年 - 579年)によって達成され、ホスロー1世は突厥と協力して560年にエフタルを打倒した[98]。
シャーハーン・シャーの居住地
サーサーン朝の君主はバハラーム1世(在位:271年 - 274年)以来、主としてペルシア南部のジュンディーシャープールに居住していた。これはこの都市がイラン高原とメソポタミア平原の間の便利な場所に位置していたためであったが、ティグリス川とユーフラテス川の氾濫原の重要性が高まったことから、ペーローズ1世以降のシャーハーン・シャーの中心的な居住地はクテシフォンに移った[99]。
注釈
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