ドライゼ銃 日本におけるドライゼ銃

ドライゼ銃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 08:34 UTC 版)

日本におけるドライゼ銃

幕末期には様々な洋式銃が日本に流入したが、ドライゼ銃も例外ではない。 ドライゼ銃(日本では普式ツンナール銃と呼ばれた)は開国以前から兵学のテキストに最新式の後装銃として記載されていたため、その存在は多くの洋学者に知られていたが、開国後のオイレンブルク使節団で実物を観察することができた。また文久遣欧使節は現地で性能調査を行い、横浜鎖港談判使節団では特別任務としてベルリンでの購入が計画されていたが、実際に日本へ輸入されるようになったのは、上海から日本にやって来たプロイセン人のスネル兄弟が活動を開始した1860年以降の事である[11]

その後、明治維新後になって徳川御三家のひとつである紀州藩(和歌山)が、津田出(つだいづる)・陸奥宗光等の指導下で独自の徴兵制(農兵)とプロイセン軍制を導入し、カール・ケッペンを軍事顧問に招聘すると共にドライゼ銃はその主装備として大阪のレーマン・ハルトマン商会から購入されたと伝えられており[12]、廃藩置県が断行され新生日本陸軍が誕生した後、紀州藩から政府が弁済購入した兵器類の中にドライゼ銃が多数含まれていた事を示す記録[13]や、同藩が独自に工廠を設置していた事を示す記録[14] などが確認されている[15][16]

ドライゼ銃は、日本陸軍の主装備とされたスナイドル銃や幕府から継承されたシャスポー銃とともに、台湾出兵[17]西南戦争[18][19][20][21]などの戦役で使用された後、村田銃の採用以降は、射撃訓練用[22]・電信・砲兵等の後方部隊に使用され、最終的には教練銃として払い下げられたり、銃剣術の訓練用に改造されて使用されたほか、千島列島・占守島への入植者の申請を受けて護身用に販売されていた事[23]なども記録されており、最終的に廃棄処分となったのは明治30年代になってからの事だった[24][25]




  1. ^ 『歴史を動かした兵器・武器の凄い話』148頁
  2. ^ 参照ページ: ドライゼ式の紙製薬莢を使用する回転式拳銃とレバー式の閉鎖機構を持つ各種の射的銃。
    これらのドライゼ式紙製薬莢用拳銃は、日本でも使用されていた事が記録されている。
    陸軍省大日記 「大日記 各局各官廨の部 6月水 陸軍省総務局」
    明治14年6月
    二第一六五八号 坤第三十九号 拳銃御取寄之義ニ付伺 総水@第四三二号 @形針打拳銃 弾薬 三@形針打拳銃 弾薬 右ハ朝鮮国ニ於@入用之趣@候処砲兵第一方面@来@ニ付砲兵第二方面ヨリ御取寄相成@様度度御達案相添此段相伺候也 砲兵局長 明治十四年六月三十三日 陸軍砲兵大佐原田一道 陸軍卿大山巖 伺之通 六月二十四日 砲兵第一方面ヘ御達案 @形針打拳銃 弾薬 三@形針打拳銃 弾薬 前@之通砲兵第二方面ヨリ送達@致候条受@可取計此旨相達候事 砲兵第二方面ヘ御達案 @形針打拳銃 弾薬 三@形針打@銃 弾薬 @之通砲兵第一方面ヘ送達可取計此旨相達候事 @
  3. ^ ドイツではドライゼ銃を用いた射撃大会が定期的に開催されており、正しくメンテナンスされたドライゼ銃は150年近く経った今日でも安全に発射できる事が証明されている。
  4. ^ 20世紀初頭に完成された各種のボルトアクション式小銃は、撃針が雷管の表面を突き破ってしまった場合などに、ボルトから射手に向けて高温・高圧のガスが吹き付けて射手が重傷を負う危険を避けるため、様々な回避策がそのデザインに取り込まれている。
  5. ^ 当時のプロイセン兵達の間では、額や頬に残る火傷の跡を誇って、勇気と技量に秀でた古参兵の証とする風潮が存在した。この傾向は第一次大戦後まで引き継がれたが、プロイセンを含む当時のドイツでは決闘で付けられた顔の傷を勇気の証として誇る文化も強く、鼻に受けた弾傷をトレードマークとした レームのような人物も存在した。
  6. ^ 英国製の針打銃が1870年代の清国で生産されていた事が、日本の公文書中に記録されている。
    単行書・処蕃類纂・第三十巻
    蕃地事務局 明治7年〜明治8年
    「第十七号 平野祐之上海ヨリ岩橋大蔵少丞江清国軍艦兵器買収并@慎甫横浜出張云々来柬 八月二十五日 八月八日附貴書接到辱拝見仕候陳ハ當今清政府ノ景況ハ頻リニ兵器ヲ貯ヘ軍艦ヲ備ヘ候最鎮江地方ヨリ許多出兵台湾地方其他江進発候由当港ニ在ル支那製鉄所ニヲイテハ外品製造ハ更ニ取止メ専ラ許多ノ小銃及大砲ノ弾丸盛ンニ製造致居候小銃ハ英製針打ノ類弾丸ハ@@大砲ハ聊見受候當港ニ在ル独国バンクヨリ洋銀三十五万弗支那政府江借入レ候由是レ多クハ軍艦兵器調買ノ価金ニ充テ候トノ事ニテ福州ニヲイテ、ホンコン、シャンハイバンクヨリ洋銀三百万弗清政府ヘ借入レ同港収税金ヲ以弁済方法ノ談判取極候トノ説過日新聞紙ニモ相見ヘ候間追々其筋探問仕候処是亦実事」
  7. ^ Doersch & von Baumgarten銃(バウムガルテン銃)[1]
  8. ^ 日本の一部研究者はバウムガルテン銃が日本に輸入され、紀州藩(和歌山)がこれを数千丁購入したと主張しているが、新政府が紀州藩から同藩が装備していた銃器を弁済購入した記録には“普式ツンナール銃”と明記されており、“バウムガルテン”の名はない。このため何が根拠とされ、この説が主張されているのか全く不明である。
  9. ^ Karl August Luckの試作銃[2]
  10. ^ 当時のゴムは、加硫法の発明で工業製品への利用が可能となったばかりの貴重かつ高価な新素材だったが、1861年にコーチシナを獲得し、熱帯地域に海外植民地を得たフランスは、プランテーションでゴムを強制栽培させ、軍需品として安定供給できる数少ない国のひとつだった。
    海外に植民地を有さなかったプロイセン及びドイツにとって、ゴムは植民地大国である英仏蘭(同時に潜在的な敵国だった)や南米諸国に供給を依存する不安定な素材だった。後に自動車の発達でゴムの重要性が更に高まると、その入手はドイツの運命を左右する重要な要素のひとつとなった。
  11. ^ 詳細は不明ながら、1867年(慶応三年)5月に会津藩が4,300挺のドライゼ銃を発注したと伝えられている。これは旧幕府派の各藩で後装式のドライゼ銃を分け合い、倒幕側諸藩がイギリスから輸入し始めていた後装式スナイドル銃に対抗する目論見だったと言われる。しかし鳥羽・伏見の戦いには間に合わず、戊辰戦争の実戦でドライゼ銃が使われたという記録は残っていない。
    尚、この時期に会津藩士が外国商人から踏み倒した支払について、後に訴訟沙汰になった記録が残されている。
    陸軍省大日記 「大日記 諸省使の部 3月 陸軍第1局」
    陸軍省 明治8年3月
    「第二百七十二号 壱第四百七十七号 独逸国人レーマンハルトマン商会ヨリ旧会津藩士湯治御省元造只検大令史 直田信警 等ヘ係ル銃籠代請求ノ件取調ニ付同人並元和歌山藩士湯治陸軍々吏正 清水光 儀ヘ申談度儀有之候条明十四日午前第十時当省ヘ出張可致旨御通達有之度此段及御懸合候也」
  12. ^ 設立当初はグラバー商会同様にジャーディン・マセソン系-イギリス東インド会社のマーケティング活動を担っていたが、やがて各藩・日本陸軍との関係を強めて、日本における貿易商社のなかで確固たる地位を築いて行った。
  13. ^ 陸軍省大日記 「大日記 壬申 4月省中之部 辛上」
    陸軍省 明治5年4月
    「第九百三十九号 之秘@ニ於テ致条約御普式ツンナール統属品相添一挺ニ付@均@ノ通@相成ニ此段御@候也〜但火針騎銃之代〜」
    陸軍省大日記 明治5年 「大日記 壬申 正月 諸省府県之部己」
    陸軍省
    「第四十一号 元和歌山藩ニテ孛商キ子フル社中ヨリ針銃五千七百挺大砲合十六門各附属品並土工器械及ヒ寒暑之軍服地各五千人分凡代金合弐十壱萬七千五百ドル斗シ品注文致し右代価中ハ手付金トシテ洋銀六万ドル相渡置候儀ニ御座候 然ルニ廃藩解兵被 始出候上ハ右等之品当県ヨリ買取候も不都合ニ付到着次第御届可申上候間巳儀ハ軍器類都テ御用ニ愛名有候様仕度勿論手付金之義ハ巳ニ当県支払勘定ニ相立有之儀ニ御座候ニ付残金之分ハ其省より御払下ヲ被成遣候様仕度奉存候御聞済相成」
  14. ^ 陸軍軍政年報(明治八年の項より)
    第五 砲兵事務(明治八年)九月ヨリ官員ヲ派出シ長門国萩沖原ニ於テ「エンピール」統ヲ「アルミー」銃ニ改造ヲ始ム 「スナテトル」弾製造器械来着セリ(八年九月)此器械ヲ用ユルキハ大凡一日五万発ノ弾ヲ製造スルコトヲ得ル〜和歌山属廠ハ(当)時「ツンナール」ヲ用ヒサル因ヲ閉廠
  15. ^ 「陸奥宗光と紀州の遺伝子」平成20年12月1日
    プロイセン軍制を導入した紀州藩は、普墺戦争に従軍した退役軍人であり、レーマン・ハルトマン商会の倉庫番だったカール・ケッペン(カッペン)軍曹を紀州藩の軍事顧問として雇用したと伝えられている。
    ケッペンが約2年間プロイセン式の歩兵調練にあたった事で、その後多くのドイツ系の職人・技術者が日本へやって来る契機となると共に、英仏軍の操典を教科書としていた日本陸軍に津田出が参加した事によってプロイセン=独軍系統の知識がもたらされた事でも知られているほか、ケッペンが本国で募った6名の軍事顧問が廃藩置県後に日本へ到着し、彼らの処遇を巡って紛糾が生じた事でも知られている。
    公文別録・太政官・明治元年〜明治十年・第二巻・明治元年〜明治四年
    外務省 明治1年〜明治4年 太政官
    「卿 議判 公書課 輔 辛未十二月二十五日第十二字副島外務卿邸ニ於テ外務卿首蘭公使@獨@代任公使フアンドルフーヘント応接目次 一和歌山県雇入孛国教@@ 一米輸出@@ 出席 花房外務少丞 通@ ケンプル@@ 筆記 近藤外務@大録 握手の礼相等済過日申上置候和歌山藩雇入教師の義政府御見込如何ニ御坐候哉承知仕度候 右は津田正常(津田出)陸奥帰之助(陸奥宗光)両人へ是迄の手続問糺候処右両人より御断り申上候趣意は是迄我国兵式一定ならず藩ニ於て思ひ思ひに調練致し候処今般薩藩と相求め候に付テは兵式も一定セザるを得ず故ニ不得意御断り申入れ候なり 右の趣御聞き故相来り候上政府の御見込は如何既に両人申述べ候通り種々の兵式を相集め候テは区々にて」
    外務省記録 外務卿等ノ各国公使トノ対話書 第十巻
    「辛未〔明治4年〕12月23日 辛未十二月二十三日於外務省副島外務卿荷蘭@独逸代任公使ヱフベフアンドルフーフヱン応接記 一和歌山県雇入教師之事 一神奈川県旧藩ニ係る布告新聞紙之事 一新潟にて損毛越受独逸人之事 一来正月各公使参 賀正之事 一礼終て 一此六ケ月前孛国人カツピンと申者江和歌山藩より本国於て陸軍教師六名 雇入候儀委託し其金権状@相渡し並ニ旧知事よりも右人選委頼之儀書面@差出候ニ付同人帰国之上政府江相談致候処政府にて人選済共六名之者同人引連罷越候処旧藩に付取結ひ之条約破談之容子ニ有之右者如何之訳ニ候哉右六名之者ハ政府より三年之暇儀遣し和歌山藩とて調練之儀ニ付周施候様相許候儀ニ御座候 一右者己ニ和歌山県とて破約之儀申出」
  16. ^ その後、1885年に来日したメッケル参謀少佐の影響を強く受けた日本陸軍は、仏軍から独軍へ導入モデルを切り替え、1891年発布の新操典には独軍操典が採用され、日本陸軍は日清日露の戦役を戦い抜く事に成功した。
    以降、第二次大戦の終焉まで独軍は日本陸軍の導入モデルであり続け、現在でも大学入試科目に独語が残存するなど、様々な影響を残している。
  17. ^ 陸軍省大日記 明治7年 「大日記 官省使及本省布令 11月布 陸軍第1局」
    陸軍省 明治7年11月
    「第四百二号 今般台湾蕃地御処分事件相済候ニ付在蕃兵隊之儀凱旋被仰出候条為心得此旨相達候事 明治七年十一月十四日 陸軍卿山県有朋 陸軍一般ヘ 第四百三号 近衛鎮台歩兵現今携帯之スナイトル・ツンナール銃ヲ以テ壱名ニ付四発宛射的演習差許候此旨相達候事 但弾薬之儀各所武庫主管ヨリ可受取候事〜東京鎮台」
  18. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月31日
    「局第三百七十四号 ツンナール銃及弾薬共砲兵支廠江送附之儀ニ付伺 一ツンナール銃 千三百三十挺 但弾薬盒帯革剣差共 一同弾薬 百九十五万七千発 右者砲兵本廠貯蔵之分砲兵支廠江送附為致候様仕度御達案相添此段相伺候也 第三局長代理 明治十年三月三十一日 陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理 陸軍中将西郷従道殿 砲兵本廠御達案 一ツンナール銃 千三百三十挺 一同弾薬 百九十五万七千発 右者其廠貯蔵之分前行之通砲兵支廠江送附可致此旨相達候事 砲兵支廠ヘ御達案 一ツンナール銃 千三百三十挺 一同弾薬 百九十五万七千発」
  19. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 送達の部 5月分 送号 大阪征討陸軍事務所」
    明治10年5月 陸軍省
    「大阪鎮台号 別紙即チ辞第一号 第四百十八号 医歩兵第五大隊出征候申付之付来ル二十四日神戸出帆熊本此段候ニ付該隊候可相度ツンナール弾薬二十五至急神戸港マテ輸送之上引渡可申此鶏相達候事 明治十年五月二十一日 陸軍西郷従道 砲兵〜」
  20. ^ 陸軍省大日記 明治11年 「大日記6管鎮臺の部 4月末乾 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年4月
    「五@千六百三十一号 第三伸@法@十九号 甲第三十二号 大二百十九号 元遊撃歩兵第五大隊出征用兵器彈薬返納之義ニ付伺 十年和歌山県臨時召募元遊撃歩兵第五大隊昨十二月解隊返納兵器彈薬@別紙甲乙二表之通有之御召表中持帰ノ分返納@之度此段相伺候也 明治十一年四月十五日 大阪鎮台司令長官 陸軍少将三好重臣代理 陸軍少佐高島信茂 陸軍卿山県有朋 伺之通 四月三十日 元遊撃歩兵第五大隊出征持出ノ兵器弾薬之内凱旋返納員数 長ツンナール銃 同剣 同屓革 同弾薬合 同帯革 同剣差 同胴ノ金物 同又字金 同接脱金 同鍼」
  21. ^ 陸軍省大日記 明治11年 「大日記6鎮台 5月末 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年5月
    「五第千四百六十九号 遠甲第七十三号 @百九六号 ツンナール銃還納之@ニ付伺 昨年薩絨征討之際歩兵第七連隊之内京都御守衛之節於大阪支給相成候ツンナール銃并ニ弾@左書点数之通@右ハ還納致度此段相伺候也 名古屋鎮台司令長官 明治十一年四月五日 陸軍少将四条隆@ 陸軍郷山県有朋 追テ本文之儀ハ関陸軍中佐ヘ@@ニ付@還納致度候@御許可之上該廠ヘ御達@此@申添候也 ツンナール銃四百九十二挺 同弾薬一万四千六百四十@ 伺之通 五月二日」
  22. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内省外各局参謀監軍等 10月水 陸軍省総務部」
    陸軍省 明治12年9月
    「第三坤一〇一号 参第一三六一号 控 局七一三号 東京鎮台ニ射的用トシテツンナール銃渡方並ニ該銃及弾薬共砲兵支廠ヨリ回送之義伺 東京鎮台射的演習用エンヒール銃之義ハ中ニ線条磨滅甚敷難用立ニ付ツンナール銃ト交換之義同台ヨリ別紙之通伺出有之差詮議候処単ニ東京鎮台ノミナラス各鎮台射的用エンヒール銃之義ハ総テ良品ニ無之候得共各鎮台之分悉皆交換可相成銃器無之尤モ先般近衛兵射的用ハマンソー銃ト交換相成然ルニ幸ヒツンナール銃ハ東京鎮台エ充備可度丈ケス員数有之旦実包モ概算六ケ年間射消ニ充ツヘキ員数有之候間同台ニ限リ該銃ト 交換相成度尤該銃及弾薬共砲兵支廠在庫ニ付前文御許可之上ハ同廠ヨリ回送相成候様致シ度固テ御達案相副此段相伺候也 第三局長代理陸軍大佐原田一道 十二年九月二十二日 陸軍卿西郷従道殿 伺之通」
  23. ^ 内務省警保局 警保局長決裁書類 明治26年
    警務部長代 明治26年3月23日
    「廿六年三月廿三日 第七〇号 警務第一二九号 警務部長代 シヤーフス式小銃 ツンナール式小銃 ヘンハー式六連発銃 雷管 火薬 右ハ芝区三田小山町五番地予備海軍大尉郡司成志外百余名今般千島国占守島ヘ移住ニ付前記之鉄砲並火薬護身用トシテ買求出願ニ付認許之上免手形下付及ヒ候処未タ如斯多数ノ鉄砲ヲ護身用トシテ一時買取ノ許可ヲ与ヘタル類例モ無之ニ付為念此段及御通知候也」
  24. ^ 陸軍省大日記 明治26年乾「貳大日記5月」
    軍務局長 明治26年5月25日
    「軍第一五七号 不用兵器売却方御達之件 砲兵第一方面@御達案 ツンナール銃 属品共 右売却スヘシ 砲兵第二方面@御達案 長スヘンセル銃 属品共 右売却スヘシ 送乙第八四六号 明治二十六年五月二十五日 軍務局長」
  25. ^ 陸軍省大日記 肆大日記 明治39年 「肆大日記 12月」
    第四師団経理部長横幕直好 陸軍省
    「肆第八八七号 第四師団経理部 ツンナール銃廃品処分ノ件 番号 砲四第一四〇号 受領 明治三十九年十一月二十八日 提出 明治三十九年十二月八日 受領 明治 年十二月十日 結了 明治 年十二月十二日 連帯局長 連帯課長 審案筆記者 指令 伺之趣大阪兵営支廠ヘ返納スル@ト心得ヘシ 通牒 高級副官ヨリ@@第一乃至第三、第五乃至第十二師団参謀長ヘ 先般送乙第一七八四号ヲ以テ銃剣術@碍@越等ニ使用スヘキ為演習用具トシテ旧式小銃備附相成候処曽テ銃剣術用トシテ各隊ヘ支@相成久@モ有之候ツ〜」






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