ソビエト連邦共産党
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国際関係
レフ・トロツキーの世界革命論に見られるように、国際共産主義運動を指導し、世界中の共産主義運動の中核として理論面や実際の政治行動に深くかかわった。第二インターナショナルから分裂した国際組織コミンテルンの本部はモスクワに置かれ、人民戦線や日本共産党の設立やスペイン内戦に深くかかわるなどした。しかし党内での権力闘争でヨシフ・スターリンが勝利し、トロツキーが追放されると一国社会主義論が正式な理論となり、ロシア的ナショナリズムを重視するようになる。スターリンはソビエト連邦を守るために周辺諸国の共産党勢力支援に力を入れた。一方、独ソ戦の開始以降は連合国の歓心を得るためにコミンテルンを解体し世界革命を否定した。
第二次世界大戦の勝利によって、東欧や東アジアに多くの共産主義政権を築くことに成功した。スターリンは新たにコミンフォルムを結成し、各国共産党の統制を行った。ユーゴスラビアのチトー大統領の離反はあったもののソ連共産党は共産主義政党の盟主的地位を得た。情勢が変化するのはスターリン死後の1956年2月にニキータ・フルシチョフが行ったスターリン批判以降である。
スターリン批判以後
これまで東側諸国の理論的支柱であったスターリンに対する批判は各国共産党の動揺を招いた。中国を支配する中国共産党とは中ソ論争が始まり、今まで蜜月関係であった両国関係が中ソ対立に向かうことになる。また、ハンガリーではハンガリー社会主義労働者党の支配体制が揺らぎ、ハンガリー動乱が発生。ソ連は直接軍事介入によって事態を収拾したが、世界の共産主義運動の一部にはソ連への失望が生まれた。アルバニアはスターリン批判以降、ソ連指導部を修正主義者と呼び痛烈な非難を浴びせ、中国に接近した(しかしその後中国とも距離を置き、1990年代の民主化まで事実上の鎖国状態に入ることになる)。1970年代には西側諸国の共産党(フランス、イタリア、スペイン、日本など)がプロレタリア独裁の放棄や複数政党制の容認、自由と民主主義の擁護などを掲げ、ソ連共産党を厳しく批判した(ユーロコミュニズム)。また、キューバ危機での譲歩によりフルシチョフの威信は低下した。しかし冷戦終了まで世界の共産主義運動においてソビエト連邦共産党の影響力は大きなものがあった。
注
出典
- ^ 世界大百科事典 第2版 コトバンク. 2018年9月15日閲覧。
- ^ a b 百科事典マイペディア コトバンク. 2018年9月15日閲覧。
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- ^ 下斗米伸夫『図説 ソ連の歴史』河出書房新社、2011年、p.20.
- ^ 『ボルシェビキ』 - コトバンク
- ^ Harris, Jonathan. Subverting the System: Gorbachev's Reform of the Party's Apparat, 1986–1991. Lanham, MD: Rowman & Littlefield, 2005. pp. 110–3.
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