グレート東郷 来歴

グレート東郷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/10 19:06 UTC 版)

来歴

非白人の貧しい移民の子供として辛酸をなめ、「喧嘩に強くなりたい」という思いから、少年時代よりレスリングボクシングに打ち込む[1]1933年サンフランシスコのプロモーターにスカウトされ、22歳でデビュー[1]。当初は「ブル・イトーBull Ito)」、後に本名の「ジョージ・オカムラGeorge Okamura)」として活動した[1]

終戦後、敵国日本の象徴だった東條英機にあやかったリングネームグレート・トージョーGreat Tojo)」を名乗ったが、太平洋戦争の終結から10年も経っていない1950年代当時のアメリカで「東條」の名をそのまま使うのは刺激が強すぎると判断(実際に観客からナイフで切りつけられるなど、身の危険に晒されていた)[1]。そのため、日露戦争で著名な大日本帝国海軍元帥東郷平八郎にちなんで「グレート・トーゴーGreat Togo)」と改名[1]、このリングネームを晩年まで用いた[3]

卑劣かつ姑息な反則技、薄ら笑いと慇懃なお辞儀、和風コスチューム(法被や浴衣、下駄)、膝下までの田吾作タイツ、塩をまく「儀式」などのギミックは、アメリカにおけるヒール日系および日本人レスラーの雛形となり、ミスター・モトハロルド坂田キンジ渋谷ミツ荒川トージョー・ヤマモトプロフェッサー・タナカミスター・フジなどに受け継がれていった。全盛時代の東郷は、試合の度に観客の憎悪を浴びて襲われ[3]、ときには銃剣で田楽刺しにされそうになったこともあったという。また、日系アメリカ人協会から抗議されたこともあった。

日本には1959年9月、日本プロレスに初参戦[4]。その後もワールド大リーグ戦に例年来日し、日本陣営の一員となって頭突き空手チョップなどの技を用い、根性溢れるベビーフェイスとして活躍した[4]。ブッカーとしても手腕を振るい、フレッド・ブラッシーザ・デストロイヤーなど本拠地のロサンゼルス地区で活動していた大物レスラーをはじめ、グレート・アントニオなどの怪物レスラーも来日させた。アントニオ来日の際は彼の首に鎖をつないで先導するなどマネージャー役も演じている[4]

日本プロレスのアメリカにおける窓口として、さまざまな外国人レスラーを斡旋するが、力道山死後の1963年12月20日、日本プロレスの幹部だった芳の里遠藤幸吉吉村道明豊登から、ブッキング料を巡るトラブルでブッカーを解任される[5]。その報復として、アメリカ修行中だったジャイアント馬場に高額の契約金を保証してアメリカに定着するよう、フレッド・アトキンスを通して説得したが失敗に終わった[6]

1968年、日本での復活を策して国際プロレスに協力し、日本プロレス時代と同様に外国人レスラーをブッキングしたほか、選手として試合にも出場[7]TBS放送開始初戦のルー・テーズグレート草津戦において草津のセコンドも務めた。しかし、日本プロレスから大木金太郎を引き抜こうとしたために[2]、宿泊中のホテルニューオータニに押しかけたユセフ・トルコ松岡巌鉄から暴行を受けるという事件が勃発、警察沙汰となって一般紙でも大きく報道された[8]。また、ブッキング料を巡るトラブルから、招聘した外国人選手に試合出場をボイコットさせるなど[2]、最終的には国際プロレスとも決別することとなった。

1969年1月にはテーズの協力のもと、日本での第三勢力として『トーゴー&テーズ・カンパニー』(ナショナル・レスリング・エンタープライズ = 仮称)なる新団体の設立を画策。しかし、この情報を察知した日本プロレスの妨害工作に遭い、NETテレビフジテレビへの売り込みにも失敗[9]。同年8月にNWAへの加盟を申請したが、8対10で否決されたことで頓挫している[9][10]。この新団体にはシャチ横内がエース候補として予定されていたが、テーズの証言によると、実際には東郷はテーズ宅を1回だけ訪問して新団体の概要を説明したのみで、ブッキング依頼などの具体的な話までには発展しなかったという[9]

1973年12月17日、胃癌の手術の経過が思わしくなく、ロサンゼルスにて62歳で死去[1]


  1. ^ a b c d e f g h 『THE WRESTLER BEST 1000』P282(1996年、日本スポーツ出版社
  2. ^ a b c 『Gスピリッツ Vol.19』P90(2011年、辰巳出版ISBN 9784777808922
  3. ^ a b c ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』P226-229(2018年、宝島社ISBN 9784800289216
  4. ^ a b c 『世界名レスラー100人伝説!!』P28-29(2003年、日本スポーツ出版社、監修:竹内宏介
  5. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.12』P72(2015年、ベースボール・マガジン社ISBN 9784583623252
  6. ^ a b 『ジャイアント馬場 - 王道十六文』(2002年、日本図書センターISBN 4-8205-9566-0
  7. ^ The IWE matches fought by Great Togo in 1968”. Wrestlingdata.com. 2022年6月24日閲覧。
  8. ^ 『Gスピリッツ Vol.15』P72(2010年、辰巳出版、ISBN 477780772X
  9. ^ a b c 『日本プロレス事件史 Vol.2』P8 - P10(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 9784583621876
  10. ^ 『プロレス醜聞100連発!!』(1998年、日本スポーツ出版社、ISBN 978-4-930943-10-1
  11. ^ 『Gスピリッツ Vol.31』P14(2014年、辰巳出版、ISBN 4777812936
  12. ^ 『悪役レスラーは笑う』
  13. ^ IWE 1968 Opening World Series & World Tag Team Series”. Puroresu.com. 2022年6月24日閲覧。
  14. ^ a b NWA World Tag Team Title [Los Angeles]”. Wrestling-Titles.com. 2014年12月11日閲覧。
  15. ^ a b NWA Canadian Open Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2014年12月11日閲覧。
  16. ^ a b NWA Hawaii Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2014年12月11日閲覧。
  17. ^ The CSW matches fought by Haruka Eigen in 1973”. Wrestlingdata.com. 2022年6月24日閲覧。






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