オノ・ヨーコ 音楽活動

オノ・ヨーコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 22:27 UTC 版)

音楽活動

ジョン・ケージオーネット・コールマンとコラボレーションを行っている。1961年カーネギー・ホールで初公演を行った[注釈 2]。ヨーコはこのパフォーマンスを「すべて配置し終わると、私はステージをとても暗くしたの。網膜を緊張しなければならないほどにね。なぜって、人生はそういうものだからよ。緊張しなければ人の心を読むことだってできないわ。それからステージを真っ暗にした。(中略)みんなは、ステージではまったく音をたてずに静かに廻ってね。紐で絡がれた2人の男性が、体の周りに空き缶と空き瓶をいっぱいぶら下げて、音をたてずにゆっくりとステージの端から端まで静かに移動しなければいけないときがあったの、私のやりたかったことは、ほとんど聴こえない音を作ることだったのよ[12]。」と語る。1965年には、同じ会場で『カット・ピース』2回目の公演を行った。

1968年、レノンがビートルズ在籍中の『トゥー・ヴァージンズ』が始まりで、アルバム『ザ・ビートルズ』では「レボリューション9」の制作でレノンをサポートし、バックコーラスとして「バースデイ」に参加し、「ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル」では1フレーズのみながらソロ・ボーカルを披露している。

1971年6月5日、レノンがフランク・ザッパフィルモア・イーストでのコンサートに招かれた際、レノンと共にステージに上がっている。

1969年、プラスティック・オノ・バンドのファーストアルバム『平和の祈りをこめて』をトロントで開催された『ロックンロール・リバイバル・フェスティバル英語版』で録音した。レノンとヨーコに加え、当初メンバーとして、ギタリスト、エリック・クラプトン、ベーシスト、クラウス・フォアマン、ドラマー、アラン・ホワイトがいた。前半はスタンダードなロック・ナンバーで、後半は、ヨーコがマイクをとり、叫び歌うという前衛的な構成であった。

1970年には最初のソロ・アルバムである『ヨーコの心英語版』を発表。これは『ジョンの魂』の姉妹アルバムにあたる。二つのアルバムのジャケットのデザインは共通しており、『ヨーコの心』では、彼女がレノンに寄りかかっている写真を、『ジョンの魂』はレノンがヨーコに寄りかかっている写真を使用している。『ヨーコの心』は、日本の古来からの土着的歌謡から影響を受けたと思われる、唸りと叫びが交錯する独特なボーカルがフィーチャーされているが、そのボーカルは、自然界の音(特に動物による)や風の音、管楽器奏者によって用いられたフリー・ジャズのテクニックを駆使したサウンドに共通するところがある。パフォーマーには、オーネット・コールマンや著名なフリー・ジャズ奏者が含まれ、リンゴ・スター、その他のミュージシャンが脇を固めている。ある曲では、言葉をなさないボーカルがフィーチャーされており、これは後にメレディス・モンクなどのアーティストに影響をあたえたとされている。また、パブリック・イメージ・リミテッドなどのバンドに影響を与えた。

1971年、2枚組アルバム『フライ英語版』を発表。「ミッドサマー・ニューヨーク」や「マインドトレイン」で、従来のサイケデリック・ロックを披露する一方で、フルクサスの作品も含まれている。また「ミセス・レノン」は大々的ではないものの、ラジオで放送された。キョーコがトニー・コックスとともに失踪した後に作られた曲「ドント・ウォーリー・キョーコ(京子ちゃん心配しないで)」が有名である。

1972年、レノンとともに2枚組アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』」を発表。1973年には、『無限の大宇宙英語版』と『空間の感触英語版』という2枚のフェミニストアルバムを1973年に発表した。特に、「ムーブ・オン・ファースト(移動だ)」「ヤン・ヤン」「サマンサの死」は評価が高い。1974年に『ストーリー』を制作したが当時はリリースせず、1997年にリリースされた。

1980年初頭、レノンはナイトクラブで、リーナ・ラビッチ英語版B-52'sの「ロック・ロブスター」を聴き、彼らの音楽はヨーコのサウンドを彷彿させるものがあると感じ、ヨーコのサウンドがメインストリームに到達したことの現れだと考えた。実際、多くのミュージシャンは、ヨーコを一アーティストとして、また、ミューズアイコンとして賞賛している。例えば、エルヴィス・コステロは「ウォーキング・オン・シン・アイス」を、B-52'sは「ドント・ウォーリー・キョーコ(京子ちゃん心配しないで)」を「ドント・ウォーリー」にタイトルを変更してカバーしている。また、ソニック・ユースは、「ボイス・ピース・フォー・ソプラノ」を『SYR4・グッバイ・20th・センチュリー』で披露している。ベアネイキッド・レディースの中には「ビー・マイ・ヨーコ・オノ」があり、ダー・ウィリアムス英語版は「アイ・ウォント・ビー・ユア・ヨーコ・オノ」というタイトルの曲をレコーディングしている。

1980年『ダブル・ファンタジー』をレノンとともに発表、同年、12月8日、レノンとヨーコはスタジオで、『ウォーキング・オン・シン・アイス』の作業をしていた。レノンの没後『ウォーキング・オン・シン・アイス(フォー・ジョン)英語版』は1か月も経たないうちにリリースされ、チャート58位を記録し、特にダンス・チャートでは13位に達し、ヨーコにとっては初のチャート・サクセスとなった。1981年、レノンのひびが入り血のついた眼鏡と半分だけ水の入ったグラスが、セントラル・パークを望む窓の前におかれている衝撃的な写真をカバーに使用した『シーズン・オブ・グラス』を発表する。この写真は2002年4月にロンドンのオークションに出品され、約13,000ドルで落札された。ライナーノーツの中でヨーコはこのアルバムはレノンに捧げたものではないとし、「そんなことを言ったら、ジョンは気分を害することでしょう。彼は私たちの一人なのだから」と語っている。

1982年、『イッツ・オーライト英語版』を発表。カバーには、トレードマークのサングラスをかけたヨーコが太陽を見つめている写真を使用し、バック・カバーには、ゴーストとなったレノンが彼女と息子を見つめている写真を使用した。シングル曲「マイ・マン」「ネバー・セイ・グッドバイ」はラジオでも放送された。

1984年、トリビュート・アルバムエブリ・マン・ハズ・ア・ウーマン英語版』がリリースされた。このアルバムの中で、エルヴィス・コステロロバータ・フラックエディー・マネーロザンヌ・キャッシュ英語版ハリー・ニルソンといったアーティストがヨーコの楽曲を演奏している。これは、レノンが完成させることができなかったプロジェクトの一つであった。同年末に、ヨーコとレノンの最後のアルバム『ミルク・アンド・ハニー』が未完成デモとしてリリースされた。

1980年代最後のアルバム『スターピース英語版』は、ロナルド・レーガンスター・ウォーズ計画に対抗する意図で製作されたアルバムである。ジャケットでは、温かく微笑むヨーコが地球を手のひらで包み込んでいる。『スターピース』はレノンが関わっていない作品の中で一番の成功をおさめた。シングル「ヘル・イン・パラダイス」はヒットし、MTVで繰り返し放送された。

1986年、『スターピース』の親善ワールド・ツアーを行い、主に東欧諸国を回った。

1992年、ライコディスクと契約をかわし、6枚組ボックス・セット『オノボックス英語版』をリリースする。このボックス・セットは1974年の「ロスト・ウィークエンド」セッション時の未発表作品と共に、すべてのソロ・アルバムの中からの主要作品のリマスター・バージョンを収録している。また、1枚組アルバムとして、オノボックスのベスト盤と言えるアルバム『ウォーキング・オン・シン・アイス』もリリースした。同年、音楽ジャーナリストマーク・ケンプ英語版による、オルタナティヴ・ミュージック雑誌「オプション」のカバーストーリー用ロング・インタビューにヨーコは応じた。ポップスとアバンギャルドを融合したさせた先駆者としての彼女の役割を許容している新しい世代のファンのために、ヨーコの音楽を見直すという内容だった。

1994年、ブロードウェイ向けにアレンジをした曲を使用した『ニューヨーク・ロック』というミュージカルをプロデュースした。

1995年、息子ショーンのバンドIMAとコラボレーション、『ライジング』を発表し、世界ツアー(ヨーロッパ、日本、アメリカ)も行った。翌年、「ライジング・ミックス」で、様々なミュージシャンとコラボレーションを行った。ライジングのリミキサーとして、チボ・マットウィーントリッキーサーストン・ムーアらがいる。この頃、行方不明だったキョーコから連絡があり、再開を果たす。音信不通だった理由は、裁判で父親が不利にならないようにする意図や、有名人である母親に自慢できる娘になってから会いたかったからだと言う。連絡のきっかけは、夫との子供を生む前に、一度は母に会わなきゃいけないと考えたとも語っている。

1997年、ライコディスクは、全ソロアルバムをCDで再発した。ヨーコとロブ・スティーブンスはリマスターを行い、アウトテイク、デモ、ライブ音源など、様々なボーナストラックが付け加えられた。

2001年、『ブループリント・フォー・ア・サンライズ英語版』を発表。

2002年、クラブ用に、DJらがヨーコの曲のリミックスをおこなった。このリミックス・プロジェクトでは、ヨーコは名義を単純に「オノ」とし、これは、彼女のキャリアを通して悩ませ続けた「オー・ノー!」(Oh No!)というジョークへのレスポンスにもなっている。ペット・ショップ・ボーイズや、オレンジ・ファクトリー英語版ピーター・ラウファー英語版ダニー・テナグリア英語版らトップDJ、ダンス・アーティストらによってリミックスされた新しい『ウォーキング・オン・シン・アイス』は大きな成功をおさめた。

2003年4月、『ウォーキング・オン・シン・アイス(リミックス)』は、ビルボード・マガジンのダンス/クラブ・プレイ・チャートで初の1位に輝いた。1981年版オリジナル12インチ・ミックスでは、「ヨーコ、これは初のNo.1になるよ」とレノンがしゃべっている声が聞くことができる。

2004年11月、『エブリマン...エブリウーマン』で再度、ダンス/クラブ・プレイ・チャートの1位に返り咲いた。これは、『ダブル・ファンタジー』に収録されている「エブリ・マン・ハズ・ア・ウーマン・フー・ラブズ・ヒム」をベースにした曲で、同性婚をサポートする内容の歌詞となっている。

2005年6月、ロンドンの音楽フェス、メルトダウンへの参加。パティ・スミス監修、クイーン・エリザベス・ホール英語版でパフォーマンスを行った。

2008年1月に"No No No"で、8月には"Give Peace a Chance"で、ダンス/クラブ・プレイ・チャートの1位を記録した。

2009年6月、"I'm Not Getting Enough英語版"で、76歳にして5度目のダンス/クラブ・プレイ・チャートでの1位を記録した。

2010年、"Give me something"と"Wouldnit (I'm A Star)英語版"で通算7度目となるダンス/クラブ・プレイ・チャートでの1位を記録した。現在、ダンス/クラブ・プレイ・チャートの分野では最も活躍しているアーティストの1人である。

2007年2月、『イエス・アイム・ア・ウィッチ英語版』が発売した。さまざまなアーティストによる、彼女の楽曲のリミックスやカバー集となっており、フレーミング・リップスキャット・パワーアントニーDJスプーキー英語版ポーキュパイン・ツリーピーチーズらが参加しており、批評家から好評価を得た。『プラスティック・オノ・バンド/ヨーコ・オノ(オノの心)』のスペシャル・エディションも発売となった。その他にも、4月にヨーコの作品のダンス・リミックスのコンピレーション『オープン・ユア・ボックス』が発売された。

2009年6月9日、4曲入りEP、"Don&'t Stop Me!"がiTunesにおいて限定配信された。このEPは、息子であるショーンが本田ゆか達と立ち上げたレーベル、キメラ・ミュージックより9月にリリースされるスタジオ・アルバム"Between My Head and the Sky"から一足早く4曲を収録したものである。このアルバムは1973年の『空間の感触』以来初となる、プラスティック・オノ・バンド名義でリリースされる。この新生プラスティック・オノ・バンドには、ショーン・レノンコーネリアス本田ゆからが参加している。


注釈

  1. ^ このエピソードは『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の中でもレノンの証言によって紹介されているが、フィリップ・ノーマン著『シャウト!ザ・ビートルズ』などの書籍では「鉄板に釘を打つパフォーマンスを試したいというレノンのリクエストにヨーコが難色を示したところ、レノンは『君に空想のお金を払って僕は空想の釘を打とう』と提案し、それがヨーコを感動させた」という別のエピソードが紹介されている。
  2. ^ メイン・ホールではなく258席の会場
  3. ^ "June with spoon"は、適当にを踏んだだけの内容のない歌詞という意。

出典

  1. ^ a b c d Phares, Heather. Yoko Ono | Biography & History - オールミュージック. 2021年4月18日閲覧。
  2. ^ a b Olivia B. Waxman (2019年3月25日). “Behind the Photo: How John Lennon and Yoko Ono Came Up With the Idea of Their Bed-In for Peace”. TIME. 2023年10月20日閲覧。
  3. ^ 安田善三郎 歴史が眠る多磨霊園 2020年2月21日閲覧
  4. ^ 小野節子『女ひとり世界に翔ぶ ― 内側からみた世界銀行28年』講談社、2005年8月30日。ISBN 4-0621-3013-0 
  5. ^ オノ・ヨーコ#芸術活動参照
  6. ^ Steve Dougherty, “ Oh Yes! Ono Turns 70” (2003), Oh Yes! Ono Turns 70, ピープル(2003)
  7. ^ Yoko Ono, “Celling Painting (YES Painting)” (1966), YES YOKO ONO, Mito Arts Foundation (2003)
  8. ^ ジョン・レノン・ミュージアム・プログラム 2000.
  9. ^ a b メーガン妃が英王室を「オノ・ヨーコした」 海外で相次ぐツイート”. J-CAST ニュース. J-CAST (2020年1月10日). 2020年10月3日閲覧。
  10. ^ 映画評論』1967年6月号、12-13頁、「アングラ旋風、ロンドン上陸 小野洋子のオヒップ・シネマ」。
  11. ^ No. 4 - IMDb(英語)
  12. ^ 飯村 1992.
  13. ^ “Paul McCartney: Yoko Ono did not break up the Beatles”. The Guardian (Guardian Media Group). (2012年10月27日). https://www.theguardian.com/music/2012/oct/27/paul-mccartney-yoko-ono-beatles-david-frost 2021年4月18日閲覧。 
  14. ^ Herbert, Ian (2005年10月15日). “Yoko Ono claims she was misquoted over McCartney outburst”. The Independent. Independent News and Media Limited. 2005年12月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月18日閲覧。
  15. ^ ABOUT IMAGINE PEACE TOWER”. IMAGINE PEACE TOWER. 2021年4月18日閲覧。






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