オノ・ヨーコ 芸術活動

オノ・ヨーコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 22:27 UTC 版)

芸術活動

フルクサス運動の提唱者ジョージ・マチューナスはヨーコの作品を高く評価していた。ヨーコと共にフルクサスを広めようと考えていたが、ヨーコはフルクサスをムーブメントだとは認識しておらず、どこにも属さないアーティストでありたいと考えたためにある一定の距離を置いていた。

ジョン・ケージはヨーコに多大な影響を及ぼしたひとりである。ケージの関わりは、ニュー・スクールでのケージの有名な実験的作曲法の授業の生徒だった一柳慧との関係を通してのものだった。ヨーコは、ケージと彼の生徒達の型にはまらない前衛的な音楽に次第に傾倒していった。

1960年夏、ニューヨークに芸術家の作品を展示する場所を熱心に探し、マンハッタンのチャンバーズ・ストリート112番地に格安なロフトを見つけ、そこをスタジオ兼住居とすることにした。それは、ケージがニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでの講師を辞めた直後のことだった。一方、ラ・モンテ・ヤングはそのロフトでコンサートを企画させてほしいと頼み込み、不本意ながら承諾したという。やがて2人は数々のイベントをこのロフトで主催することになった。互いに自分こそが第一キュレーターだったと証言しているが、ヨーコによると、次第に彼女はヤングの補佐的役割へと押しやられていった。このロフトでのイベントでは、キャンバスの小片を地面に置き、足跡をつけて完成する『踏まれるための絵画』に代表されるヨーコの初期のコンセプチュアル・アート作品も展開されていた。その観賞者は、アート作品とは壁に飾られた手の届かないものである必要はなく、地面におかれ汚れた不揃いなキャンバスのかけらで、しかも踏みつけられる事によって完成とすることもあり得るのだという、ヨーコが提示したジレンマに直面せざるを得なかった。

当時のパフォーマンスに、1964年草月会館で上演された『カット・ピース』がある。この作品の説明には、一言「切れ」(Cut)という破壊的な動詞があるのみで、観客が舞台上に座っているヨーコの衣服を、ヨーコが裸になるまで文字通り切るという作品である。作品を介して彼女の内的苦痛を伝えるという、彼女の作品にはよく見られるもののひとつである。大学で、ジャン=ポール・サルトル実存主義に触れ、自身の人間としての苦痛を鎮めるため、観客にアート作品を完成させるための協力を求めると同時に、自身のアイデンティティを確立させようともしていた。『カット・ピース』は、アイデンティティに対する問いかけに加え、社会的調和と愛の必要性も訴えている。また、苦痛や孤独という人としての普遍的な苦悩に言及すると同時に、ジェンダー問題や性差別にも触れているフェミニズム・アートでもある。この作品はロンドンをはじめ、様々な場所で上演され、観客が変わる度に違った反応を集めている。日本では観客は控えめで用心深く、ロンドンでは熱狂しすぎた観客が暴力的になり、ヨーコが警備員に保護されるに至った事もある。2003年には、パリで再演されている(1965年にメイスルズ兄弟によって同名のドキュメンタリー映画がつくられた)。

グレープフルーツ英語版』は1964年に東京で刊行され、超現実的で、禅問答にも通じる命令口調の言葉が並び、読み手の創造力の中で完成するというアート作品である。一例として、次の一節がある。「みんな家に帰るまで隠れなさい。みんなあなたのことを忘れるまで隠れなさい。みんな死ぬまで隠れなさい」。ヒューリスティクス言葉によるアートであるこの作品は数回出版されたが、1971年サイモン&シュスター版が最も広く流通し、2000年には同社によって再版されている。パフォーマンス作品として、この作品から引用することもあり、多くの展示会もこれに基づいているものが多い。

1966年1月、ウェズリアン大学で行われたレクチャーで、作品のインスピレーションについて次のように語っている。「音楽以外の作品はすべて、イベント的な要素を持っています。イベントとは、ハプニングのように他の分野の芸術を同化させたものではなく、さまざまな知覚からの自身の解放なのです。多くのハプニングにみられる一体感もなく、ただ自己と向き合う営みなのです。ハプニングと違って台本もありません。ただし、イベントの引き金となるものはあります。願いや希望に近いものかもしれません。心の壁を取り払い、視覚、聴覚、そして動的な知覚を捨てたあと、私たちは何を生み出すだろうか。私はそのようなことに思いを巡らしています。私のイベントは多くの場合、驚異を感じながら行なわれるのです。満足に食べることもできず、空想のメニューを弟と言い合っていた第二次世界大戦の体験にまで遡る手法です」。

実験映画作家でもあり、1964年から1972年の間に16本の映像作品を撮っている。1966年に夫のアンソニー・コックスと『No.4』(通称『ボトムズ』)を監督した[10][11]。歩行機上を歩く人のお尻のクローズ・アップ・ショットの連続で、スクリーンに映し出された映像は、お尻の縦の線と下部にできる横皺の線とでほぼ4分割されているように見える。サウンドトラックとして、このプロジェクトの参加者と参加希望者のインタビューが使われている。1996年スウォッチがこの作品を記念してそのお尻の映像をデザインした時計を製造した。

レノンはかつて彼女のことを「世界で最も有名な無名アーティスト。誰もが彼女の名前を知っているが誰も彼女のしていることを知らない」と語っている。

親しい仲間には、ジョージ・マチューナスラ・モンテ・ヤングの他に、ケイト・ミレットナム・ジュン・パイクダン・リクター英語版ジョナス・メカスマース・カニンガムジュディス・マリナ、エリカ・アビール、フレッド・デ・アシス、ペギー・グッゲンハイム英語版ベティ・ローリン英語版荒川修作エイドリアン・モリス英語版ステファン・ウォルフェ英語版キース・ヘリングアンディ・ウォーホル林三從らがいた。

オンタリオ美術館マシュー・タイテルバウム英語版は、「オノ・ヨーコは世界で最もオリジナルで、最も感動を与えるビジュアル・アーティストのひとりだ」。ニューヨーク・タイムズマイケル・キンメルマン英語版は「オノ・ヨーコのアートは鏡だ。彼女の作品『ボックス・オブ・スマイル』のように、我々は彼女の作品に対する自身の反応の中に、自身を見ることになる。自己啓発への小さな刺激を与えてくれる。まるでのようだ」。

2001年、回顧展『イエス、ヨーコ・オノ』は、アメリカ美術批評家国際協会英語版の最優秀美術館展賞を受賞。

2002年、マルチメディア部門でスカウヒーガン・メダル

2001年、リヴァプール大学より名誉法学博士号を授与された。

2002年、バード・カレッジより名誉美術学博士号を授与された。スコット・マクドナルド客員教授は「彼女の作品は作品として賞賛に値するし、彼女がメディアの歴史の中で、そして世界の中で、主張してきた事も賞賛に値する。その勇気、不屈さ、粘り強さ、独立心、そして何よりも、創造力。そして、平和と愛こそが輝かしくて多様性に富んでいる人類の未来へと導いてくれるのだ、という信念はすばらしい」と過去に語っている。

2005年、ニューヨーク日本協会から特別功労賞を授与された。

オノヨーコ、ニューヨーク近代美術館の願いの木、ニューヨーク

2009年6月、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。初の日本人受賞者となった。受賞理由について、「パフォーマンス・アートコンセプチュアル・アートの先駆者。もっとも影響力を持つアーティストのひとり。ポップカルチャーと平和活動のシンボルとなるずっと前から芸術的な表現方法を開拓し、日本と欧米の双方において永続的な痕跡を残してきた」と説明している。


注釈

  1. ^ このエピソードは『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の中でもレノンの証言によって紹介されているが、フィリップ・ノーマン著『シャウト!ザ・ビートルズ』などの書籍では「鉄板に釘を打つパフォーマンスを試したいというレノンのリクエストにヨーコが難色を示したところ、レノンは『君に空想のお金を払って僕は空想の釘を打とう』と提案し、それがヨーコを感動させた」という別のエピソードが紹介されている。
  2. ^ メイン・ホールではなく258席の会場
  3. ^ "June with spoon"は、適当にを踏んだだけの内容のない歌詞という意。

出典

  1. ^ a b c d Phares, Heather. Yoko Ono | Biography & History - オールミュージック. 2021年4月18日閲覧。
  2. ^ a b Olivia B. Waxman (2019年3月25日). “Behind the Photo: How John Lennon and Yoko Ono Came Up With the Idea of Their Bed-In for Peace”. TIME. 2023年10月20日閲覧。
  3. ^ 安田善三郎 歴史が眠る多磨霊園 2020年2月21日閲覧
  4. ^ 小野節子『女ひとり世界に翔ぶ ― 内側からみた世界銀行28年』講談社、2005年8月30日。ISBN 4-0621-3013-0 
  5. ^ オノ・ヨーコ#芸術活動参照
  6. ^ Steve Dougherty, “ Oh Yes! Ono Turns 70” (2003), Oh Yes! Ono Turns 70, ピープル(2003)
  7. ^ Yoko Ono, “Celling Painting (YES Painting)” (1966), YES YOKO ONO, Mito Arts Foundation (2003)
  8. ^ ジョン・レノン・ミュージアム・プログラム 2000.
  9. ^ a b メーガン妃が英王室を「オノ・ヨーコした」 海外で相次ぐツイート”. J-CAST ニュース. J-CAST (2020年1月10日). 2020年10月3日閲覧。
  10. ^ 映画評論』1967年6月号、12-13頁、「アングラ旋風、ロンドン上陸 小野洋子のオヒップ・シネマ」。
  11. ^ No. 4 - IMDb(英語)
  12. ^ 飯村 1992.
  13. ^ “Paul McCartney: Yoko Ono did not break up the Beatles”. The Guardian (Guardian Media Group). (2012年10月27日). https://www.theguardian.com/music/2012/oct/27/paul-mccartney-yoko-ono-beatles-david-frost 2021年4月18日閲覧。 
  14. ^ Herbert, Ian (2005年10月15日). “Yoko Ono claims she was misquoted over McCartney outburst”. The Independent. Independent News and Media Limited. 2005年12月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月18日閲覧。
  15. ^ ABOUT IMAGINE PEACE TOWER”. IMAGINE PEACE TOWER. 2021年4月18日閲覧。






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