ウクライナ文学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 00:14 UTC 版)
言語、地理
ウクライナは国境をロシア、ベラルーシ、ポーランド、スロバキア、 ハンガリー、ルーマニア、モルドバと接している。また、南の黒海をはさんでブルガリア、トルコ、ジョージアに面している[116]。こうした地域や民族と歴史的につながりがあるため、ウクライナ文学の作品は、ウクライナ語の他に、ロシア語、ウクライナ語とロシア語の混合語にあたるスルジク、ユダヤ人のイディッシュ語、ポーランド語などさまざまな言語で書かれている[117][118]。
文学におけるウクライナとロシアの関係は流動的となっている。理由としては、(1) 過去において明確に分かれて存在していたわけではない点、(2) 分類する基準が複数あるために帰属を決めるのが困難である点がある[注釈 39]。歴史的にはウクライナ人でありつつロシア語で執筆し、ロシア帝国やソ連への帰属意識をもつ作家も存在した[注釈 40][122]。独立後は出版においてウクライナ語化と脱ロシア語化が進められており、ウクライナ語の割合が増える可能性が高い(後述)[117][118]。
北東部のシヴェーリア地方は古代から続く森林があり、中世の『キーウ年代記』や、最古の叙事詩『イーゴリ遠征物語』にも登場する[123]。スロボダ・ウクライナ地方はロシア南部国境と接しており、ウクライナ初の哲学者フルィホーリイ・スコヴォロダらの生地でもある[124]。中心に位置するポルタヴァ州は、古典文学の作者を多数輩出した。近代ウクライナ文学の始まりにあたる小説『エネイーダ』の作者コトリャレフスキーの出身地もポルタヴァにある[125]。西部はカルパチア山脈の山谷で地域が分かれており複雑な民族構成をもつ。ハルィチナー地方はウクライナ初の印刷所が作られ、19世紀の民族運動の中心となった[12][33]。南部のオデッサは黒海の貿易で急成長をした都市で、19世紀以降に多民族・多国籍の住民が暮らした。ウクライナ語、ロシア語、イディッシュ語が混じり合う語彙やスラングが特徴で、それまでの思索的なロシア語文学に対してストーリー性、ユーモア、風刺を特徴とする作品が書かれた[注釈 41][127]。
古スラヴ語
スラヴ世界の最古の文語は古代教会スラヴ語であり、9世紀末にギリシャ語の福音書や詩篇を翻訳するための言語として成立した[128]。9世紀後半にモラヴィア王国の君主ロスティスラフが、スラヴ人の言葉で布教するようにビザンツ帝国に求めたことがきっかけだった[注釈 42][130]。ビザンツ帝国の聖職者キュリロスとメトディオスがモラヴィアに派遣され、アルファベットからグラゴル文字を考案した[131][4]。グラゴル文字はブルガリアの首都プレスラフに伝わり、グラゴル文字をさらに使いやすくした文字としてキリル文字が作られた[132]。
キリル文字はキーウ・ルーシに伝わり、キリスト教が国教になる前からキリル文字が使われた[133]。やがてブルガリアの滅亡後に移住してきた聖職者によって、キーウ・ルーシが古代教会スラヴ語の中心となり、古代教会スラヴ語は原地の話し言葉の影響を受けて変化していき、教会スラヴ語が成立した[134]。11世紀に修道士を中心に識字層が増え、キリスト教関係の文書が古代教会スラヴ語から教会スラヴ語へ筆写された(後述)。12世紀には『原初年代記』をはじめとしてオリジナルな著作が書かれるようになり、文章の中でスラヴ語の統語法や談話構造が明確になった[注釈 43][9]。
キーウ・ルーシの時代は、ウクライナ語、ロシア語、ベラルーシ語は古東スラヴ語の中で言語や文学の境界が定まっていなかった[135][136]。古東スラヴ語は8世紀から14世紀にかけて分化が進み、キーウ・ルーシ滅亡後の分割統治も影響を与え、前述の3言語の違いが明らかとなった[14][136]。14世紀から16世紀にかけて祈祷書を中心に写本が行われ、タルノヴォの総司教イェフティミィが正書法の改良を行った[注釈 44][4]。
ウクライナ語
ウクライナの国家語・公用語にあたるウクライナ語は、スラヴ語派の東スラヴ語群に属し、ロシア語やベラルーシ語と同じグループになる[注釈 45]。そのためウクライナでは2言語や3言語を使う住民が多い。ウクライナ語の話者は、歴史的にポーランド王国やハプスブルク帝国の影響下にあった西部に多く、ロシアの影響下にあった東部や南部では少ない[注釈 46][136]。独立前のロシア帝国やソ連時代は小ロシア語や小ロシア方言と呼ばれることもあり、またハプスブルグ領ではルテニア語とも呼ばれた[141]。2001年の国勢調査では、ウクライナ国民の67.5%がウクライナ語を母語とし、29.6%がロシア語を母語としている[注釈 47][144]。
ウクライナ語の正書法は3段階の発展があり、(1) ウクライナ・ルーシ期(10世紀〜17世紀。古スラヴ語の時代)、(2) メレーチー・スモトリツキーによる文法(17世紀初頭〜18世紀末)、(3) 新ウクライナ語期(19世紀〜)となる[145]。スラヴ語文献にウクライナ語の音が現れるのは、スモトリツキーの『スラヴ語文法の正しい構成』(1619年)が初となった。この文法書によって教会スラヴ語の正書法が確立した[注釈 48][147][148]。パンヴォ・ペルインダは30年をかけて『スラヴ・ロシア語辞典』(1627年)を編集し、教会スラヴ語のウクライナ語訳と固有名詞の解説で構成されており重要な辞典とされる[149]。
18世紀初頭のピョートル1世の時代に文字改革が行われ、ウクライナの学者も参加して、伝統的なキリル文字に代わる新しいキリル文字が採用された。この新たなキリル文字は世俗文字とも呼ばれる。世俗文字のアルファベット32文字は、その後のウクライナ語、ベラルーシ語、ロシア語の正書法の基礎となった[注釈 49][147]。ウクライナ口語で書かれたコトリャレフスキーの『エネイーダ』の影響で、1798年から1905年までに約50種類の正書法が考案された[25]。20世紀以降のウクライナ語の正書法に影響を与えたのは、ボリス・フリンチェンコの『ウクライナ語辞典』(1907年-1909年)で、作家や出版社はフリチェンコの書記法を模範とした。1918年にはウクライナ中央ラーダが公式のウクライナ語正書法を発表した[150]。
ロシア語
ウクライナを扱った初のロシア語作品を書いたのは、ヴァシーリー・ナレージヌイだった[110]。ニコライ・ゴーゴリはヴェルィーキ・ソローチンツィ出身で、父はウクライナ語の劇作家だった。ゴーゴリ自身はサンクト・ペテルブルクに暮らしてロシア語で執筆し、ウクライナを描いた『ディカーニカ近郷夜話』(1829年-1831年)で人気作家となった[注釈 50][151]。貿易で栄えたオデッサは、19世紀にはニューヨーク、ワルシャワに次いでユダヤ人の多い都市となった。ユダヤ人の制限が廃止された1920年代には、イサーク・バーベリの『オデッサ物語』(1921年-1924年)をはじめとしてウクライナ出身のユダヤ人によるロシア語文学も盛んになった[152]。ロシア革命からソ連時代にかけてウクライナ出身のロシア語作家が多数輩出された[注釈 51][126]。
アンドレイ・クルコフは独立後に最も早く世界的に読まれたロシア語作家で、『ペンギンの憂鬱』(1996年)などがある[153][154]。ナタリア・ヴォロジビトはモスクワでロシア語作家として活動したのちにウクライナへ戻り、題材に合わせてウクライナ語とロシア語を使い分けている[155]。
スルジク
独立後はウクライナ語とロシア語の混合語であるスルジクで執筆する作家も現れた[156]。ロシアの侵攻後はウクライナ国内で言語のウクライナ化が進んでおり、ウクライナ語を話そうとするロシア語話者が増えたために新たなスルジクが発生している[157]。スルジク語作家として、ミハイロー・ブリニフ、脚本家のレシ・ポデレビャンスキ[156]、そしてコロムィヤ出身で『奇妙な人々』を発表したアルテム・チャパイらがいる[118]。
イディッシュ語
イディッシュ語は東欧の他にも世界各地で暮らすユダヤ人が使う言語であり、ウクライナ文学の作品もある[注釈 52][117]。ユダヤ人は紀元前から商業でクリミア半島におり、13世紀以降のポーランド王国の拡大によってウクライナで急増し、オデッサの貿易でさらに増加した[注釈 53][160]。ペレヤスラウ出身のショレム・アレイヘムはイディッシュ語で書きつつ、自作をロシア語にも翻訳した[152]。ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作『牛乳屋テヴィエ』(1894年)もアレイヘムの作品で、ウクライナのシュテットルを舞台にしている[161]。ドヴィド・ベルゲルソンはロシア語とヘブライ語で執筆したのちにイディッシュ語で故郷のウクライナを描き続け、ウクライナ人の登場人物によるウクライナ語のセリフが飛び交っている[注釈 54][44]。
ポーランド語、ドイツ語
ポーランド人はハルィチナーの支配層だった歴史があり、ハルィチナーの首都リヴィウはポーランド語でルヴフと呼ばれ、ポーランド人とウクライナ人の双方にとって文化の要所だった[注釈 55][164]。ポーランド語作家にも、ウクライナ出身者のヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチがいる。カリヌィーク出身のイヴァシュキェヴィッチはワルシャワに移住し、喪失した故郷としてウクライナを描いた[注釈 56][167]。イヴァン・フランコは語学に優れており、ロシア語の他にドイツ語やポーランド語でも発表した。フランコはドイツの文芸作品をウクライナ語に翻訳したり、シェフチェンコの作品をドイツ語に翻訳した業績でも知られる[注釈 57][169][170]。モダニズムの演出家でリヴィウ出身のレス・クルバスは最初はポーランド語、ベラルーシ語、ロシア語で執筆し、次第にウクライナ語を使うようになった[171]
ラテン語
東方正教会を経由して西欧文化が伝わるにつれて、17世紀から18世紀のキーウの著作家は教会スラヴ語だけでなくラテン語でも執筆した。たとえばアカデミアの教授だったフェオファン・プロコポーヴィチの『詩学講義(De arte poetica libri tres)』などがある[19]。
スラヴ・ミクロ言語
スラヴ語にはスラヴ・ミクロ言語と呼ばれる少数言語があり、ウクライナ語の方言もしくは別の言語とみなされるものも存在する。ルシン語はセルビア、ポーランド、スロヴァキアでも使われており、南ルシン語は詩や小説などの創作が行われている[143][172]。ウクライナ・ベラルーシ・ポーランド・ロシアが接するポレシエ地方には西ポレシエ語がある。ベラルーシの詩人ミコラ・シリャホヴィッチらは西ポレシエ語の作品を掲載した機関紙を発行し、ウクライナ人も参加した。いったん活動は縮小したのち、2015年からベラルーシの雑誌『スプラヴァ(出来事)』で西ポレシエ語の文章がウクライナ語、ベラルーシ語、ロシア語とともに掲載されている[173]。
その他
ロシア革命を逃れた白系ロシア人と呼ばれる人々にはウクライナ人もおり、亡命先や移住先で創作や出版を行った。ウクライナ東洋学者協会の会長フョードル・ダニレンコは、満洲国時代のハルビンで小説を書き、極東ウクライナ人の情報発信としてウクライナ語の雑誌『遠東雑誌』を発行した[174]。
ヴァスィリー・エロシェンコは、視覚障害者が日本ではマッサージ師(按摩師)として自立して生活しているという情報を聞いて日本に滞在し、日本語の童話や詩を発表した[175]。
ウクライナ出身で国外で暮らす作家は2000年以降に増加した。その中には非ウクライナ語の作品もある[注釈 58][176][177]。この他にも、クリミア・タタール語作家のエミール・アミットや、オデッサ出身でドイツ語作家のマリアナ・ガポネンコなどをウクライナ文学に含める場合もある[44]。
注釈
- ^ ヘロドトスの『歴史』に書かれたスキタイ語の固有名詞から推定すると、スキタイ語は印欧語族のインド・イラン語派イラン語派東イラン語群東南イラン語群に属する[1]。
- ^ 『歴史』は黒海北岸の多数の民族について書かれている。『地理学』に登場するスオベニと呼ばれた民族は、ラテン語でスラヴ人を指すスクラヴェニの可能性がある。『自然誌』には、アゾフ海とカスピ海の間に住むアンテスという民族が登場する。6世紀のヨルダネスによれば、アンテスはスクラヴェニと同一の言語を話していたとされる[2]。
- ^ ルーシ(ルシ)という語は、元来はフィン語系の人々によるノルマン人の呼称だった。当初はキーウのノルマン系支配階層を指し、次にスラヴ民族にも適用され、次第にキーウ公国そのものを指すようになり、キーウ・ルーシの呼称が領土に適用されていった[5]。
- ^ ブルガリアはキリル文字を作った国でもあったが(後述)、シメオン1世の死後に弱体化してビザンツ帝国に滅ぼされた[7]。
- ^ コサックとはテュルク系の言語で「群を離れた者」を意味する。ウクライナ・コサックは、ポーランド王国やリトアニア大公国の農奴から逃れた人々を中心に始まった[16]。
- ^ カレッジ設立者のペトロー・モヒーラは、のちのキーウ府主教。当時ウクライナと文化的に関係があったモルダヴィアの大公の家庭出身だった[18]。
- ^ アカデミアの学生は聖職者だけでなく貴族、富裕なコサック、職人、農民がおり、民族的にはロシア人、ブルガリア人、ルーマニア人、セルビア人、アラビア人がいた。教科書にはアリストテレス、プラトン、ゼノン、プトレマイオスらの著作も使われた[19]。
- ^ ロシア領内では小ロシア人、ハプスブルク領内ではルテニア人とも呼ばれた[26]。
- ^ ロシア帝国政府はウクライナ貴族のロシア化を進め、貴族は官僚層となった[27]。都市にはロシア人が増え、ウクライナ人の都市民もロシア語使用者が増えた。農村はウクライナ語が中心だったため、ロシア領内のウクライナ人は都市と農村で言語や習慣の格差が進んだ[28]。
- ^ キリル・メトディー団のメンバーには作家のパンテレイモン・クリーシや歴史家のミコーラ・コストマーロフらがいた[24]。
- ^ フロマーダが特に力を入れたのは農民への教育活動で、ウクライナ語やウクライナの歌謡、コサックの歴史などを教えた[24]。
- ^ ドラホマーノフは革命諸党派を批判したために孤立したが、その思想はウクライナ民族運動に影響を与えた[34]。
- ^ この時代の作家として、ヴォロディミル・ウィンイチェンコ、ミコーラ・ヒフィリョウィイ、エフゲン・マラニューク、ミコーラ・ゼロフ、ミハイリ・セメンコ、パフロー・ティチーナらがいる[41]。
- ^ へトマン政府のウクライナ国や、ウクライナ人民共和国、西ウクライナ人民共和国[42][43][44]、そしてチェコスロヴァキアから独立したカルパト・ウクライナがあった[45]。
- ^ この時代の作家として、オレーシ・ホンチャール、パウロー・ザグレベルニイ、ドミトロー・パフリチコらがいる[41]。
- ^ ミコラ・フヴィリョヴィー、劇作家のミコラ・クーリッシュ、詩人のミコラ・ゼローフらが処刑された[47]。
- ^ この時代の作家として、イワン・ドラチ、ドミトロー・パフリチコ、リーナ・コステンコ、ヴォロディミル・ヤヴォリーフスキらがいる[50]。
- ^ ミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた政治改革のペレストロイカが、ウクライナでもペレブドーヴァと呼ばれて本格化した[53]。
- ^ これらの変化は、バルト三国やジョージアの民衆の動きともつながっていた[41]。
- ^ この時代の作家としてユーリ・アンドルホーヴィチ、エフゲン・パシュコフスキ、オレーシ・ウリャネンコ、オクサーナ・ザブージコ、ユルコー・イゾドリック、ステパン・プロツックらがいる[56]。
- ^ アレクサンドル・ボロディンは『イーゴリ遠征物語』をもとに歌劇『イーゴリ公』を作曲した[10]。
- ^ キーウ・ルーシ時代の叙事詩が地域ごとに分化し、ロシアではブィリーナが成立した[61]。
- ^ 1930年代の大粛清では、ハルキウで数百人のコブザーリが殺害されたという情報がある。1997年にはハルキウ市がコブザーリの碑を建てた[62]。
- ^ 書名はロシア語、内容はウクライナ語で書かれている[64]。
- ^ マーケティング調査会社Gfk Ukraineによる2003年の調査[68]。
- ^ 『鉛筆』は、貧しい農村の小学生が鉛筆を拾った体験を通して、貧困と教育の問題が描かれている[72]。当時の農村の小学校は、ウクライナ語を話しただけで教師が平手打ちをすることも日常茶飯事だった[73]。
- ^ イラリオンはスラヴ系として初のキーウ府主教であり、洞窟修道院で活動していたところをヤロスラフ1世に見出された[78]。
- ^ 聖者列伝は、修道士の人生の断片を集めた内容で、反面的な教育効果のために堕落した修道士についても書かれている。この点で、修道士の全人格や全人生を記述する聖人伝とは異なる[79]。
- ^ 洞窟修道院の建立についての逸話も収録されており、コンスタンティノープルから建築士やイコン画家が来訪し、教会が建築されてモザイク画が描かれるまでの物語がある[81]。
- ^ 古代教会スラヴ語の聖者伝もあり、『コンスタンティノス伝』と『メトディオス伝』はグラゴル文字を作ったキリルとメトディオスの聖者伝にあたる[83]。
- ^ 15世紀の編纂は、東方正教においてキーウの伝統を見直す運動の一環として行われた。17世紀の編纂は、ポーランドから伝わってきたカトリックの文化やイエズス会に対抗して東方正教の文化を示す目的で行われた[注釈 30][84]。
- ^ ウクライナ・バロックのパロディ性質や民話と結びついた喜劇は、ミハイル・バフチンが定義したウクライナのグロテスク・リアリズムの伝統に該当する[20]。
- ^ ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人、ポーランド人、ユダヤ人、トルコ人、ロマなどが登場する[89]。
- ^ ゴーゴリの小説『ヴィイ』や『イワンとイワンが喧嘩した話』にも登場する。また、ヴェルテプのステレオタイプな登場人物はゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』によって散文に置き換えられている[91]。
- ^ マリヤの伯母エヴフロシニヤは教養人で、写本の販売で得た資金を慈善や女性の教育に使っており、マリヤが識字教育を受けた可能性が高い。またエヴフロシニヤの伝記は、『イーゴリ遠征物語』と同じくルーシ諸侯の内紛を憂う内容となっている[100]。
- ^ 他方ロシアでは、2014年クリミア危機以降に作家の亡命が相次いでおり、ボリス・アクーニン、リュドミラ・ウリツカヤ、ウラジーミル・ソローキン、クセニヤ・ブクシャらが国外で活動している[106]
- ^ ロシア人作家がウクライナ民話をテーマにした作品として、コンドラチイ・ルイレーエフ『ヴァイナローフスキイ』(1824年)やアレクサンドル・プーシキンの『ポルタワ』(1829年)などがある[111]。
- ^ 他方、19世紀にウクライナの文芸作品を高く評価し、ウクライナ文化やユダヤ文化をテーマに執筆したドイツ人として、カール・エミール・フランツォースがいた。フランツォースはウクライナの作品をドイツ語に翻訳もしている[112]。
- ^ 作者の民族、言語、自己認識、作品の舞台などいくつかの基準がある[119]。隣国ベラルーシでもロシア語が浸透しており、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチやサーシャ・フィリペンコはロシア語作家である[120][121]。
- ^ たとえばウクライナの民族運動でもあったキリル・メトディー団のクリーシやコストマーロフは、ウクライナ独立ではなくロシア内でウクライナの地位向上を目指す方針を選んだ[40]。
- ^ イサーク・バーベリ、イリフ=ペトロフ、エドゥアルド・バグリツキーらがオデッサ出身である[126]。
- ^ 当時のキリスト教ではヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語が伝道に使われていた。ロスティスラフは隣国の東フランク王国に対抗するために自国の教会の独立を望んでいた[129]。
- ^ 初期の古代教会スラヴ語は原典のギリシャ語に沿った文法で、スラヴ語の特徴を知ることは困難となっている[9]。
- ^ 言語学では、第2次南スラヴの影響と呼ばれる[4]。
- ^ 旧ソ連地域では「国家語」という呼称が言語の法的地位に使われる[137]。ウクライナ最高裁判所は2014年に国家語と公用語は同一概念として判断している[138]。国家語という呼称は、ドイツ語のStaatsspracheをロシア語の государственный языкに訳すことでレーニンが使い始めた。なお、レーニン自身はロシア語を国家語にすれば民族間の敵意を高めると考えており否定的だった[139]。
- ^ 『原初年代記』の記録によれば、12世紀時点でキーウ・ルーシの南端がウクライナと呼ばれている。ポーランド王国とリトアニア大公国の東の境界もウクライナと通称された。フルシェフスキーが書いたウクライナ人の通史『ウクライナ民族史』が大きな影響を与え、ルーシとウクライナが一体として考えられるようになった[140]。
- ^ ペトロ・ポロシェンコ政権は2018年に、国家語としてのウクライナ語の機能保障法を定め、幅広い公的分野でウクライナ語を義務づけた[142]。ロシア語やスルジクの他に、ウクライナ語に近いルシン語やベラルーシ語、そしてブルガリア語、ポーランド語、ルーマニア語、イディッシュ語、クリミア・タタール語なども使われている[143]。
- ^ スモトリツキーはポーランド・リトアニア共和国で東方正教の確立を目的に活動した人物で、教会スラヴ語の確立はその一環だった[146]。
- ^ 古スラヴ語にはなく、その後に加わったウクライナ語のアルファベットとして、Ґ(ゲー)とЇ(イィー)がある[4]。
- ^ ゴーゴリと同時代のウクライナ出身のロシア語作家として、オレスト・ソモフらがいる[110]。
- ^ コンスタンチン・パウストフスキー、ユーリイ・オレーシャ、ミハイル・ブルガーコフ、アンナ・アフマートヴァ、イリヤ・エレンブルク、ヴァシリー・グロスマンらがいる[126]。
- ^ イディッシュ語という名称が公式に決まったのは、1908年にウクライナのチェルニウツィーで開催された「イディッシュ語のための会議」だった[158]。
- ^ ユダヤ人とウクライナ人には対立の歴史もある。ウクライナ人にとってのユダヤ人は、ポーランド王国時代にポーランド人支配層に協力した民族にあたる。ユダヤ人にとってのウクライナ人は、17世紀から20世紀にいたるまでしばしばポグロムを行った民族でもある[159]。
- ^ キーウで活動したイディッシュ語作家には、ベルゲルソンの他にデル・ニステルやレイブ・クヴィトコらがいる[162]。
- ^ 19世紀から20世紀のリヴィウは、ウクライナ人やポーランド人に加えてドイツ系オーストリア人、ユダヤ人、アルメニア人という5つの主な民族集団が暮らしていた。ドイツ語ではレンベルク、ラテン語ではレオポリス、ロシア語ではリヴォフと呼ばれる。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムは回想録『高い城』で故郷のルヴフに触れている[163]。リヴィウ出身のドイツ語作家にはレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホもいる[117]。
- ^ かつてポーランド領だった地域はクレスィと呼ばれ、ポーランドの作家がクレスィをテーマに書く作品はクレスィ文学とも呼ばれる[165]。また、ポーランドのロマン主義文学にはウクライナ派と呼ばれる詩人もおり、代表的な人物としてアントニ・マルチェフスキ、ユゼフ・ボフダン・ザレスキ、セヴェリン・ゴシチンスキがいる[166]。
- ^ フランコの翻訳はゲーテ、シラー、ハイネ、クライストなどドイツ語作品の他に、シェイクスピア、バイロン、コンラッドなどの英語作品、さらにドイツ語版を底本にしたと推測されるインドやアラビアの作品にも及んだ[168]。
- ^ ヴィリニュス在住のヤロスラフ・メルニック、ウィーン在住のターニャ・マリャルチュック、パリ在住のイレナ・カルパ、ロンドン在住のスウィトラナ・プルカロ、ニューヨーク在住のワシーリー・マフノらがいる[176]。
- ^ 当時の写本は約30点が現存している[180]。
- ^ フョードロフはモスクワの国営印刷所に勤め、1564年にピョートル・ムスチスラーヴェツと共に『聖使徒経』を手がけた。しかし上層部、高位聖職者、先達たちから迫害を受けてモスクワを去った[184]。
- ^ 1569年のルブリン連合以後は、カトリックによる東方正教への抑圧があった。これに対して正教徒は教育、文学、芸術についての出版物を求め、『初等読本』が印刷された[187]。
- ^ 西ウクライナで印刷所が増えた理由として、書籍印刷が盛んだったポーランドのクラクフに近かった点や、製紙工房が多かった点がある[189]。
- ^ 文学パブ「ドット・コマ」や、レストラン「クピドン」などが知られる[195]。
- ^ ソ連時代のウクライナ経済は、連邦内で鉄鋼、軍事、穀物産業を分業していた。独立後の1990年代は、価格や貿易の自由化によってインフレーションや財政赤字と国際収支の赤字が続いた[197]。
- ^ オクサーナ・ザブジュコのコモラ、イワン・マルコビチのアババガラマガ、ワシール・ガーボルのピラミダ、カプラノフ兄弟のエレニー・ペスがある[199]。
- ^ 回収された本は、トルストイ、ゴーリキー、プーシキン、ブルガーコフなどのロシア語作家の作品や、デュマやレマルクのロシア語訳などがある[201]。
- ^ キーウ出身のブルガーコフは、ロシア内戦の体験をもとにした『白衛軍』でウクライナへの愛着を描いた[202]。
- ^ 2017年のアルセナーレは5万人、ブックフォーラムは1万5,000人の参加者がいた[208]。
- ^ 民主化運動プラハの春に対してソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻が起きた際、ウクライナ作家同盟で反対したのはリーナ・コステンコだけだった[212]。
出典
- ^ a b 吉田 2012, pp. 105–106, 125.
- ^ a b c 伊東, 井内, 中井編 1998, pp. 32–34.
- ^ a b 佐藤 1992, pp. 231–232.
- ^ a b c d e f ポズドゥニャコーヴァ, 寺田 2011, p. 128.
- ^ 福嶋 2017, pp. 191–192.
- ^ a b 黒川 2002, pp. 56–57.
- ^ a b 服部 2020, pp. 93–95.
- ^ ダツェンコ 2015, p. 128.
- ^ a b c 佐藤 1992, pp. 231–233.
- ^ a b c 黒川 2002, p. 57.
- ^ 二見 1985, p. 80.
- ^ a b 伊東, 井内, 中井編 1998, pp. 113–114.
- ^ 黒川 2002, pp. 53–54.
- ^ a b 黒川 2002, pp. 59–60.
- ^ 黒川 2002, p. 82.
- ^ a b 伊東, 井内, 中井編 1998, pp. 156–161.
- ^ 原田 2018a, p. 197.
- ^ a b 伊東 1993, pp. 80–81.
- ^ a b 伊東 1993, pp. 81–82.
- ^ a b c 伊東 1993, pp. 82–83.
- ^ 中村 2018, pp. 206–207.
- ^ 栗原 2018, pp. 137–138.
- ^ 光吉 2018a, pp. 145–146.
- ^ a b c d e f g h i j 光吉 2018b, pp. 148–149.
- ^ a b c ポズドゥニャコーヴァ, 寺田 2011, p. 129.
- ^ 光吉 2018b, p. 149.
- ^ 黒川 2002, pp. 131–133.
- ^ 黒川 2002, p. 135.
- ^ a b 小粥 2018, pp. 155–156.
- ^ 光吉 2018b, pp. 147–149.
- ^ 黒川 2002, p. 131.
- ^ 黒川 2002, p. 154.
- ^ a b 小粥 2018, p. 156.
- ^ 伊東, 井内, 中井編 1998, pp. 243–244.
- ^ 黒川 2002, p. 149.
- ^ 黒川 2002, p. 153.
- ^ 村田 2021, p. 6.
- ^ a b c 原田 2018a, p. 198.
- ^ 伊狩 2006, p. 4.
- ^ a b 光吉 2018b, pp. 150–151.
- ^ a b c d e f ホメンコ 2019, p. 106.
- ^ a b 伊狩 2006, p. 2.
- ^ a b c 光吉 2018c, pp. 158–161.
- ^ a b c d 田中 2022, p. 64.
- ^ 岡部 2021b, pp. 102–103, 106.
- ^ a b ソロシェンコ 2021, pp. 29–30.
- ^ a b 原田 2018b, p. 119.
- ^ ダツェンコ 2015, p. 113.
- ^ 藤森 2018, pp. 177–179.
- ^ ホメンコ 2019, pp. 106–107.
- ^ 原田 2018b, p. 118.
- ^ 黒川 2002, pp. 241–242.
- ^ 伊東, 井内, 中井編 1998, pp. 328–329.
- ^ a b ホメンコ 2019, pp. 105–106.
- ^ 伊東, 井内, 中井編 1998, pp. 328–331.
- ^ a b ホメンコ 2019, p. 107.
- ^ a b ホメンコ 2019, p. 114.
- ^ a b c ホメンコ 2019, p. 126.
- ^ a b 二見 1985, pp. 79–83.
- ^ ダツェンコ 2018b, p. 55.
- ^ 二見 1985, pp. 79–80.
- ^ 黒川 2002, p. 215.
- ^ 伊東 1993, p. 89.
- ^ シェフチェンコ 2022, p. 212.
- ^ シェフチェンコ 2022, pp. 210–212.
- ^ 藤井 2018, pp. 189–191.
- ^ 原田 2007, pp. 210, 220, 222.
- ^ a b 原田 2007, p. 207.
- ^ 原田 2018b, p. 138.
- ^ 伊東, 井内, 中井編 1998, p. 233.
- ^ a b 小粥 2008, pp. 17–18.
- ^ a b 小粥 2016, pp. 32–34.
- ^ 小粥 2016, p. 36.
- ^ ホメンコ 2019, p. 116.
- ^ ホメンコ 2018, pp. 200–201.
- ^ a b 中澤 2014, pp. 233–234.
- ^ 中澤 2014, pp. 235–236.
- ^ a b 三浦 2012, pp. 77–78.
- ^ 三浦 2006, p. 133.
- ^ 三浦 2006, pp. 130, 133.
- ^ 三浦 2006, p. 135.
- ^ 三浦 2006, pp. 136–137.
- ^ 服部 2020, pp. 44–46.
- ^ a b 三浦 2006, pp. 131–133.
- ^ 大野 2016, pp. 153–155.
- ^ 大野 2016, pp. 151–152.
- ^ 森木 2023, pp. 18–19.
- ^ 小粥 2006, pp. 99–100.
- ^ a b 伊東 1993, pp. 83–84.
- ^ 伊東 1993, p. 87.
- ^ a b 伊東 1993, pp. 84–85.
- ^ ソロシェンコ 2021, pp. 34–35.
- ^ a b ホメンコ 2021, pp. 25–26.
- ^ ホメンコ 2021, p. 16.
- ^ ホメンコ 2021, p. 22.
- ^ ホメンコ 2019, p. 119.
- ^ ホメンコ 2019, p. 122.
- ^ ホメンコ 2021, pp. 30–31.
- ^ ホメンコ 2021, pp. 13–14.
- ^ 早坂 2013, p. 128.
- ^ 早坂 2013, pp. 128–129.
- ^ 赤尾 2018, p. 98.
- ^ “シリア・ウクライナの戯曲を全国5都市で上演 「紛争地域から生まれた演劇シリーズ」 15年記念 地域連携プロジェクト”. 国際演劇協会日本センター (2023年). 2024年3月8日閲覧。
- ^ “ウクライナの翻訳絵本『戦争が町にやってくる』平和とは戦争とは何か”. 絵本ナビ (2022年6月16日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ “ウクライナPEN、ヴィクトリア・アメリーナ氏逝去の報”. 日本ペンクラブ (2023年2月9日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ “相次ぐロシア人作家の国外脱出 新たな「亡命文学」の誕生も 松下隆志”. 週刊エコノミスト Online (2022年9月30日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ “戦争が“言葉”を変えていく ある詩人が見たウクライナ”. NHK (2023年8月23日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ ホメンコ 2019, pp. 120–121.
- ^ 徳永 2023, pp. 1, 4.
- ^ a b c 大野 2016, p. 155.
- ^ a b 大野 2016, p. 171.
- ^ 伊狩 2006, pp. 6–8.
- ^ ソロシェンコ 2021, pp. 31–32.
- ^ ホメンコ 2019, p. 108.
- ^ ホメンコ 2019, pp. 108–109.
- ^ “ウクライナ概観”. 在ウクライナ日本国大使館 (2021年10月). 2024年3月9日閲覧。
- ^ a b c d 田中 2022, p. 63.
- ^ a b c 池澤 2023b, pp. 112–113.
- ^ 中村 2018, p. 207.
- ^ 越野 2017b, p. 146.
- ^ 奈倉 2023.
- ^ 中村 2018, pp. 207–210.
- ^ ダツェンコ 2018b, pp. 51–52.
- ^ ダツェンコ 2018b, pp. 53–54.
- ^ ダツェンコ 2018a, pp. 54–56.
- ^ a b c 中村 2018, pp. 210–211.
- ^ 嵐田 1994, pp. 57–58, 69–70.
- ^ 佐藤 1992, p. 231.
- ^ 服部 2020, pp. 25–26.
- ^ 服部 2020, pp. 22–26.
- ^ 服部 1982, pp. 102–104.
- ^ 服部 2020, pp. 82–84.
- ^ 服部 2020, p. 108.
- ^ 服部 2020, pp. 93–95, 108.
- ^ 越野 2017a, p. 147.
- ^ a b c 中澤 2018, pp. 100–102.
- ^ 池澤 2023c, p. 160.
- ^ 池澤 2023c, p. 178.
- ^ 池澤 2023c, p. 169.
- ^ 福嶋 2017, pp. 195–196.
- ^ 伊東 1993, p. 83.
- ^ 池澤 2023a, pp. 42–43.
- ^ a b ダツェンコ 2018a, pp. 77–80.
- ^ ダツェンコ 2018a, p. 76.
- ^ ポズドゥニャコーヴァ, 寺田 2011, p. 127.
- ^ 福嶋 2017, p. 217.
- ^ a b ポズドゥニャコーヴァ, 寺田 2011, pp. 127–128.
- ^ 福嶋 2017, p. 207,.
- ^ 岩田 1999, p. 58.
- ^ ポズドゥニャコーヴァ, 寺田 2011, pp. 130–131.
- ^ 中村 2018, pp. 207–208.
- ^ a b 中村 2018, p. 210.
- ^ 中村 2018, p. 211.
- ^ ホメンコ 2019, pp. 119–120.
- ^ 池澤 2023b, p. 118.
- ^ a b ホメンコ 2019, p. 115.
- ^ 池澤 2023a, pp. 46–47.
- ^ 西編訳 2018, p. 326.
- ^ 赤尾 2018, pp. 96–97.
- ^ 赤尾 2018, pp. 95–96.
- ^ 田中 2022, p. 66.
- ^ 西編訳 2018, p. 110.
- ^ 小粥 2006, pp. 78–79.
- ^ 小粥 2006, pp. 78–81.
- ^ 田中 2018, p. 103.
- ^ 小川 2011, pp. 121–122, 139–140, 156–157.
- ^ 田中 2018, pp. 104–106.
- ^ 小粥 2006, pp. 98–99.
- ^ 小粥 2008, p. 17.
- ^ 小粥 2016, p. 38.
- ^ 池澤 2023b, p. 1118.
- ^ ドゥリチェンコ 2017, pp. 24–26, 29.
- ^ 野町 2017, pp. 144–146.
- ^ 岡部 2021a, p. 4.
- ^ 五之治 2015, pp. 67–68.
- ^ a b ホメンコ 2019, p. 120.
- ^ 田中 2022, pp. 63–64.
- ^ 服部 2020, p. 60.
- ^ 服部 2020, p. 89.
- ^ 服部 2020, pp. 108–109.
- ^ 服部 2020, pp. 109–112.
- ^ 岩田 1999, p. 2.
- ^ 岩田 1999, pp. 2, 5–7.
- ^ 岩田 1994, pp. 117–122.
- ^ 岩田 1994, pp. 121–122.
- ^ 岩田 1999, pp. 8–9.
- ^ a b 岩田 1999, pp. 10–11.
- ^ 岩田 1999, pp. 17, 20–21.
- ^ 岩田 1999, pp. 2–5.
- ^ 岩田 1999, pp. 4–5.
- ^ a b 田上 2017, pp. 25–26.
- ^ 塩川 1999.
- ^ ホメンコ 2019, p. 109.
- ^ ホメンコ 2019, p. 113.
- ^ a b ホメンコ 2019, pp. 113–114.
- ^ 田上 2017, p. 24.
- ^ 開発援助研究所 1998, pp. 1–3.
- ^ ホメンコ 2019, pp. 109–110.
- ^ a b ホメンコ 2019, p. 117.
- ^ 池澤 2023a, p. 43.
- ^ a b “キーウの書店本棚から撤去されたロシア語書籍 ソ連批判作家の記念館にも「脱ロシア化」の矛先”. 東洋経済オンライン (2023年7月16日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ 大森 2017.
- ^ “ロシアによるウクライナ侵攻に関連する図書館・博物館の状況 藤田順”. カレントアウェアネス-E (2022年4月21日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ a b c “ウクライナの図書館員はいかにしてロシアの文化戦争に「動員」されたのか?(記事紹介)”. カレントアウェアネス-R (2022年8月22日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ “ユネスコ、ウクライナで241の文化財が損壊と発表:12の図書館、18の博物館を含む”. カレントアウェアネス-R (2023年2月24日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ “アングル:戦火からウクライナの文化遺産守れ、奮闘するオンライン部隊”. Reuters (2022年4月30日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ “ウクライナ・キーウの図書館による、国外避難している子どもに本を届けるプロジェクト(記事紹介)”. カレントアウェアネス-R (2023年7月22日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ ホメンコ 2019, p. 111.
- ^ ホメンコ 2019, pp. 110–111.
- ^ ホメンコ 2019, p. 127.
- ^ ホメンコ 2019, pp. 111–112.
- ^ 原田 2018b, p. 123.
- ウクライナ文学のページへのリンク