ウクライナ文学
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関連文献
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関連項目
- ウクライナ書籍協会
- ウクライナの民話
- ベラルーシ文学
- ロシア文学
外部リンク
注釈
- ^ ヘロドトスの『歴史』に書かれたスキタイ語の固有名詞から推定すると、スキタイ語は印欧語族のインド・イラン語派イラン語派東イラン語群東南イラン語群に属する[1]。
- ^ 『歴史』は黒海北岸の多数の民族について書かれている。『地理学』に登場するスオベニと呼ばれた民族は、ラテン語でスラヴ人を指すスクラヴェニの可能性がある。『自然誌』には、アゾフ海とカスピ海の間に住むアンテスという民族が登場する。6世紀のヨルダネスによれば、アンテスはスクラヴェニと同一の言語を話していたとされる[2]。
- ^ ルーシ(ルシ)という語は、元来はフィン語系の人々によるノルマン人の呼称だった。当初はキーウのノルマン系支配階層を指し、次にスラヴ民族にも適用され、次第にキーウ公国そのものを指すようになり、キーウ・ルーシの呼称が領土に適用されていった[5]。
- ^ ブルガリアはキリル文字を作った国でもあったが(後述)、シメオン1世の死後に弱体化してビザンツ帝国に滅ぼされた[7]。
- ^ コサックとはテュルク系の言語で「群を離れた者」を意味する。ウクライナ・コサックは、ポーランド王国やリトアニア大公国の農奴から逃れた人々を中心に始まった[16]。
- ^ カレッジ設立者のペトロー・モヒーラは、のちのキーウ府主教。当時ウクライナと文化的に関係があったモルダヴィアの大公の家庭出身だった[18]。
- ^ アカデミアの学生は聖職者だけでなく貴族、富裕なコサック、職人、農民がおり、民族的にはロシア人、ブルガリア人、ルーマニア人、セルビア人、アラビア人がいた。教科書にはアリストテレス、プラトン、ゼノン、プトレマイオスらの著作も使われた[19]。
- ^ ロシア領内では小ロシア人、ハプスブルク領内ではルテニア人とも呼ばれた[26]。
- ^ ロシア帝国政府はウクライナ貴族のロシア化を進め、貴族は官僚層となった[27]。都市にはロシア人が増え、ウクライナ人の都市民もロシア語使用者が増えた。農村はウクライナ語が中心だったため、ロシア領内のウクライナ人は都市と農村で言語や習慣の格差が進んだ[28]。
- ^ キリル・メトディー団のメンバーには作家のパンテレイモン・クリーシや歴史家のミコーラ・コストマーロフらがいた[24]。
- ^ フロマーダが特に力を入れたのは農民への教育活動で、ウクライナ語やウクライナの歌謡、コサックの歴史などを教えた[24]。
- ^ ドラホマーノフは革命諸党派を批判したために孤立したが、その思想はウクライナ民族運動に影響を与えた[34]。
- ^ この時代の作家として、ヴォロディミル・ウィンイチェンコ、ミコーラ・ヒフィリョウィイ、エフゲン・マラニューク、ミコーラ・ゼロフ、ミハイリ・セメンコ、パフロー・ティチーナらがいる[41]。
- ^ へトマン政府のウクライナ国や、ウクライナ人民共和国、西ウクライナ人民共和国[42][43][44]、そしてチェコスロヴァキアから独立したカルパト・ウクライナがあった[45]。
- ^ この時代の作家として、オレーシ・ホンチャール、パウロー・ザグレベルニイ、ドミトロー・パフリチコらがいる[41]。
- ^ ミコラ・フヴィリョヴィー、劇作家のミコラ・クーリッシュ、詩人のミコラ・ゼローフらが処刑された[47]。
- ^ この時代の作家として、イワン・ドラチ、ドミトロー・パフリチコ、リーナ・コステンコ、ヴォロディミル・ヤヴォリーフスキらがいる[50]。
- ^ ミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた政治改革のペレストロイカが、ウクライナでもペレブドーヴァと呼ばれて本格化した[53]。
- ^ これらの変化は、バルト三国やジョージアの民衆の動きともつながっていた[41]。
- ^ この時代の作家としてユーリ・アンドルホーヴィチ、エフゲン・パシュコフスキ、オレーシ・ウリャネンコ、オクサーナ・ザブージコ、ユルコー・イゾドリック、ステパン・プロツックらがいる[56]。
- ^ アレクサンドル・ボロディンは『イーゴリ遠征物語』をもとに歌劇『イーゴリ公』を作曲した[10]。
- ^ キーウ・ルーシ時代の叙事詩が地域ごとに分化し、ロシアではブィリーナが成立した[61]。
- ^ 1930年代の大粛清では、ハルキウで数百人のコブザーリが殺害されたという情報がある。1997年にはハルキウ市がコブザーリの碑を建てた[62]。
- ^ 書名はロシア語、内容はウクライナ語で書かれている[64]。
- ^ マーケティング調査会社Gfk Ukraineによる2003年の調査[68]。
- ^ 『鉛筆』は、貧しい農村の小学生が鉛筆を拾った体験を通して、貧困と教育の問題が描かれている[72]。当時の農村の小学校は、ウクライナ語を話しただけで教師が平手打ちをすることも日常茶飯事だった[73]。
- ^ イラリオンはスラヴ系として初のキーウ府主教であり、洞窟修道院で活動していたところをヤロスラフ1世に見出された[78]。
- ^ 聖者列伝は、修道士の人生の断片を集めた内容で、反面的な教育効果のために堕落した修道士についても書かれている。この点で、修道士の全人格や全人生を記述する聖人伝とは異なる[79]。
- ^ 洞窟修道院の建立についての逸話も収録されており、コンスタンティノープルから建築士やイコン画家が来訪し、教会が建築されてモザイク画が描かれるまでの物語がある[81]。
- ^ 古代教会スラヴ語の聖者伝もあり、『コンスタンティノス伝』と『メトディオス伝』はグラゴル文字を作ったキリルとメトディオスの聖者伝にあたる[83]。
- ^ 15世紀の編纂は、東方正教においてキーウの伝統を見直す運動の一環として行われた。17世紀の編纂は、ポーランドから伝わってきたカトリックの文化やイエズス会に対抗して東方正教の文化を示す目的で行われた[注釈 30][84]。
- ^ ウクライナ・バロックのパロディ性質や民話と結びついた喜劇は、ミハイル・バフチンが定義したウクライナのグロテスク・リアリズムの伝統に該当する[20]。
- ^ ウクライナ人、ベラルーシ人、リトアニア人、ポーランド人、ユダヤ人、トルコ人、ロマなどが登場する[89]。
- ^ ゴーゴリの小説『ヴィイ』や『イワンとイワンが喧嘩した話』にも登場する。また、ヴェルテプのステレオタイプな登場人物はゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』によって散文に置き換えられている[91]。
- ^ マリヤの伯母エヴフロシニヤは教養人で、写本の販売で得た資金を慈善や女性の教育に使っており、マリヤが識字教育を受けた可能性が高い。またエヴフロシニヤの伝記は、『イーゴリ遠征物語』と同じくルーシ諸侯の内紛を憂う内容となっている[100]。
- ^ 他方ロシアでは、2014年クリミア危機以降に作家の亡命が相次いでおり、ボリス・アクーニン、リュドミラ・ウリツカヤ、ウラジーミル・ソローキン、クセニヤ・ブクシャらが国外で活動している[106]
- ^ ロシア人作家がウクライナ民話をテーマにした作品として、コンドラチイ・ルイレーエフ『ヴァイナローフスキイ』(1824年)やアレクサンドル・プーシキンの『ポルタワ』(1829年)などがある[111]。
- ^ 他方、19世紀にウクライナの文芸作品を高く評価し、ウクライナ文化やユダヤ文化をテーマに執筆したドイツ人として、カール・エミール・フランツォースがいた。フランツォースはウクライナの作品をドイツ語に翻訳もしている[112]。
- ^ 作者の民族、言語、自己認識、作品の舞台などいくつかの基準がある[119]。隣国ベラルーシでもロシア語が浸透しており、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチやサーシャ・フィリペンコはロシア語作家である[120][121]。
- ^ たとえばウクライナの民族運動でもあったキリル・メトディー団のクリーシやコストマーロフは、ウクライナ独立ではなくロシア内でウクライナの地位向上を目指す方針を選んだ[40]。
- ^ イサーク・バーベリ、イリフ=ペトロフ、エドゥアルド・バグリツキーらがオデッサ出身である[126]。
- ^ 当時のキリスト教ではヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語が伝道に使われていた。ロスティスラフは隣国の東フランク王国に対抗するために自国の教会の独立を望んでいた[129]。
- ^ 初期の古代教会スラヴ語は原典のギリシャ語に沿った文法で、スラヴ語の特徴を知ることは困難となっている[9]。
- ^ 言語学では、第2次南スラヴの影響と呼ばれる[4]。
- ^ 旧ソ連地域では「国家語」という呼称が言語の法的地位に使われる[137]。ウクライナ最高裁判所は2014年に国家語と公用語は同一概念として判断している[138]。国家語という呼称は、ドイツ語のStaatsspracheをロシア語の государственный языкに訳すことでレーニンが使い始めた。なお、レーニン自身はロシア語を国家語にすれば民族間の敵意を高めると考えており否定的だった[139]。
- ^ 『原初年代記』の記録によれば、12世紀時点でキーウ・ルーシの南端がウクライナと呼ばれている。ポーランド王国とリトアニア大公国の東の境界もウクライナと通称された。フルシェフスキーが書いたウクライナ人の通史『ウクライナ民族史』が大きな影響を与え、ルーシとウクライナが一体として考えられるようになった[140]。
- ^ ペトロ・ポロシェンコ政権は2018年に、国家語としてのウクライナ語の機能保障法を定め、幅広い公的分野でウクライナ語を義務づけた[142]。ロシア語やスルジクの他に、ウクライナ語に近いルシン語やベラルーシ語、そしてブルガリア語、ポーランド語、ルーマニア語、イディッシュ語、クリミア・タタール語なども使われている[143]。
- ^ スモトリツキーはポーランド・リトアニア共和国で東方正教の確立を目的に活動した人物で、教会スラヴ語の確立はその一環だった[146]。
- ^ 古スラヴ語にはなく、その後に加わったウクライナ語のアルファベットとして、Ґ(ゲー)とЇ(イィー)がある[4]。
- ^ ゴーゴリと同時代のウクライナ出身のロシア語作家として、オレスト・ソモフらがいる[110]。
- ^ コンスタンチン・パウストフスキー、ユーリイ・オレーシャ、ミハイル・ブルガーコフ、アンナ・アフマートヴァ、イリヤ・エレンブルク、ヴァシリー・グロスマンらがいる[126]。
- ^ イディッシュ語という名称が公式に決まったのは、1908年にウクライナのチェルニウツィーで開催された「イディッシュ語のための会議」だった[158]。
- ^ ユダヤ人とウクライナ人には対立の歴史もある。ウクライナ人にとってのユダヤ人は、ポーランド王国時代にポーランド人支配層に協力した民族にあたる。ユダヤ人にとってのウクライナ人は、17世紀から20世紀にいたるまでしばしばポグロムを行った民族でもある[159]。
- ^ キーウで活動したイディッシュ語作家には、ベルゲルソンの他にデル・ニステルやレイブ・クヴィトコらがいる[162]。
- ^ 19世紀から20世紀のリヴィウは、ウクライナ人やポーランド人に加えてドイツ系オーストリア人、ユダヤ人、アルメニア人という5つの主な民族集団が暮らしていた。ドイツ語ではレンベルク、ラテン語ではレオポリス、ロシア語ではリヴォフと呼ばれる。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムは回想録『高い城』で故郷のルヴフに触れている[163]。リヴィウ出身のドイツ語作家にはレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホもいる[117]。
- ^ かつてポーランド領だった地域はクレスィと呼ばれ、ポーランドの作家がクレスィをテーマに書く作品はクレスィ文学とも呼ばれる[165]。また、ポーランドのロマン主義文学にはウクライナ派と呼ばれる詩人もおり、代表的な人物としてアントニ・マルチェフスキ、ユゼフ・ボフダン・ザレスキ、セヴェリン・ゴシチンスキがいる[166]。
- ^ フランコの翻訳はゲーテ、シラー、ハイネ、クライストなどドイツ語作品の他に、シェイクスピア、バイロン、コンラッドなどの英語作品、さらにドイツ語版を底本にしたと推測されるインドやアラビアの作品にも及んだ[168]。
- ^ ヴィリニュス在住のヤロスラフ・メルニック、ウィーン在住のターニャ・マリャルチュック、パリ在住のイレナ・カルパ、ロンドン在住のスウィトラナ・プルカロ、ニューヨーク在住のワシーリー・マフノらがいる[176]。
- ^ 当時の写本は約30点が現存している[180]。
- ^ フョードロフはモスクワの国営印刷所に勤め、1564年にピョートル・ムスチスラーヴェツと共に『聖使徒経』を手がけた。しかし上層部、高位聖職者、先達たちから迫害を受けてモスクワを去った[184]。
- ^ 1569年のルブリン連合以後は、カトリックによる東方正教への抑圧があった。これに対して正教徒は教育、文学、芸術についての出版物を求め、『初等読本』が印刷された[187]。
- ^ 西ウクライナで印刷所が増えた理由として、書籍印刷が盛んだったポーランドのクラクフに近かった点や、製紙工房が多かった点がある[189]。
- ^ 文学パブ「ドット・コマ」や、レストラン「クピドン」などが知られる[195]。
- ^ ソ連時代のウクライナ経済は、連邦内で鉄鋼、軍事、穀物産業を分業していた。独立後の1990年代は、価格や貿易の自由化によってインフレーションや財政赤字と国際収支の赤字が続いた[197]。
- ^ オクサーナ・ザブジュコのコモラ、イワン・マルコビチのアババガラマガ、ワシール・ガーボルのピラミダ、カプラノフ兄弟のエレニー・ペスがある[199]。
- ^ 回収された本は、トルストイ、ゴーリキー、プーシキン、ブルガーコフなどのロシア語作家の作品や、デュマやレマルクのロシア語訳などがある[201]。
- ^ キーウ出身のブルガーコフは、ロシア内戦の体験をもとにした『白衛軍』でウクライナへの愛着を描いた[202]。
- ^ 2017年のアルセナーレは5万人、ブックフォーラムは1万5,000人の参加者がいた[208]。
- ^ 民主化運動プラハの春に対してソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻が起きた際、ウクライナ作家同盟で反対したのはリーナ・コステンコだけだった[212]。
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