自由運動
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自由運動(じゆううんどう)
- 自由運動 (オーストラリア) - かつて存在したオーストラリア南部の政党。
- 自由運動 (リトアニア) - リトアニアの政党。
- 自由運動 (スロベニア) - スロベニアの政党。
自由運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 05:51 UTC 版)
脱獄後、カルミネはメルフィ郡の長官ドン・デチオ・ロルディを介してガリバルディの義勇軍が兵を募集していることを知る。時はシチリアを制圧した千人隊が両シチリア王国の最後の砦、王都ナポリに進軍するところであった。ガリバルディ軍として闘えば恩赦が得られると聞いて、カルミネは1860年8月17日に仲間を引き連れてガリバルディ軍に合流、有名なヴォルトゥルノの闘い(1860年9月26日ー10月2日)にも一部隊の隊長となって参戦した。 凱旋したカルミネはポテンツァの長官ジャチント・アルビーニの元を訪れ恩赦は実施されるだろうと聞かされるが、実際には恩赦は与えられず逆に逮捕される。しかもリパカンディダ村の自警団長ミケーレ・アナスタシアを誘拐したことで罪は重くなっていた。これは8月のリソルジメント運動より以前に、盗賊団の仲間マストロナルディと共に犯した罪であった。カルミネはコルフへ逃げようとしたところをチェリニョーラで捕らえられ収監された。 再び脱獄したクロッコは新政府が果たし得なかった約束に失望し、フランチェスコ2世の下でブルボン家の復興を目指す南イタリア主義者たち近づく。そして土地の神父と有力者の支援のもと、元ブルボン軍兵士のほかルカーノ(現バジリカータ州の旧名)のならず者たちを集結させて2000人規模の部隊を率いることになる。クロッコの下にあったのは43の盗賊団で、各盗賊団には軍曹1名と伍長2名が付いた。以来、彼らの攻撃はブルボン家の軍旗の下で行われた。
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