かきのもと‐の‐ひとまろ【柿本人麻呂】
柿本人麻呂
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柿本 人麻呂(かきのもと の ひとまろ)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
小倉百人一首3番「あしびきの~」の作者。
人物
出自・系譜
柿本臣は、孝昭天皇後裔を称する春日臣の庶流に当たる。人麻呂の出自については不明である。生前や死没直後の史料には出自・官途についても記載がなく、確実なことは不明である。
経歴
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも記載がないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ[1]、天武朝から歌人としての活動を始め、持統朝に花開いたとみられる。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌[2]を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある[3][4]。
江戸時代、賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠はない。複数の皇子・皇女(弓削皇子、舎人親王、新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないかとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多い[注釈 1]が、宮廷歌人という職掌が持統朝にはなく、結局は不明である。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。歌道の秘伝化や人麻呂に対する尊崇・神格化が進んだ平安後期から中世、近世にかけては、『人丸秘密抄』のように持統天皇の愛人であったと記す書籍や、山部赤人と同一人物とする論も現れるが、創作や想像による俗説・伝承である。
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌[5]が載り、また石見国の鴨山における辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌[6]が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多い。この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解[注釈 2]や、後人の仮託であるとの見解も有力である[注釈 3]。また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前に死去したものと思われる。
歌風
彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。
人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、記紀の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多い。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であると言える。
恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていた(斎藤茂吉などによる見解)。近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ性的な表現が少なくなく、窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(『万葉集評釈』巻2・217の【評】[7])のは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。
次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、百人一首にも載せられている。ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻11・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証はない。『拾遺和歌集』にも採られているので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうであるように、人麻呂に擬せられた歌であろう。
| 万葉仮名 | 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 |
|---|---|
| 平仮名 | あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む |
| 訳 | 夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。 |
作品
『万葉集』
・巻1-29 人麻呂がかつて天智天皇の都があった近江を通った時に詠んだ一首
「玉襷 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天(あま)にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山越えて いかさまに 思ほしめしか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石(いは)走る 淡海の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生(お)ひたる 霞立ち 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも」
(美しい襷をかける畝傍の山麓、橿原の地に都した天皇の御代からずっとお生まれになった歴代の天皇が、栂の木のように次々と天下を統治なさったという。天に充ちる大和を後にして、青土よき奈良山を越え、どのようなご深慮からか、遥かな田舎ではあるが、石走る近江の国の楽浪の地の大津の宮に天下をお治めになったという、天皇の大宮はここだと聞くが、大殿はここだと人はいうが、春草が生い繁り、たちこめて春日の霞が煙っているももしきの大宮のあたりを見ると悲しいことだ。)
・巻1-30~31 29番歌に対する反歌
30「楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎(からさき) 幸(さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ」
(楽浪の志賀の唐崎は変わらずあるのに、大宮人を乗せた船はいつまで待っても帰って来ない。)
31「楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめや」
(楽浪の志賀の大わだは、昔ながらに水をたたえていようとも、昔の人にまた逢うことはあるだろうか。)
・巻1-36 持統天皇の吉野宮行幸に同行した際に詠んだ一首
「やすみしし わご大君の 聞(きこ)し食(め)す 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 船競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 滝の都は 見れど飽かぬかも」
(遍く国土を治めるわが天皇が統治なさる天下に、国々は多くあるけれども、山も川も清らかな川辺として、御心をよしとなさる吉野の国の花の散る秋津の野の畔に、宮殿の柱も太く君臨なさると、宮廷の人々は船を連ね競い合って朝も夕も川を渡る。この川の絶えることのないように、この山が高いように、ますます永遠に高々と統治なさる、この激流のほとばしる滝の離宮は、いつまでも見飽きないことだ。)
・巻1-37 36番歌に対する反歌
「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく またかへり見む」
(見ても飽きない吉野の川。その川の滑らかさが永遠であるように、いつまでも絶えることなく、くり返し見よう。)
・巻1-38 持統天皇の吉野宮行幸に同行した際に詠んだ一首(36番歌と同一時かは不明)
「やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみじ)かざせり 行き沿ふ 川の神も 大御食(おほみき)に 仕へ奉ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかわ)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも」
(遍く国土をお治めになるわが天皇が、神として神々しくおられるとて、吉野川の流れ激しい川辺に、高い宮殿も高くお作りになり、登り立って国土を御覧になると、幾重にも重なる青い垣根のような山では、山の神が天皇に奉る貢ぎ物として、春には花を頭にかざし、秋になると黄葉を頭に挿している。離宮をめぐって流れる川の神も、天皇の食膳に奉仕するというので、上流には鵜飼を催し、下流にはさで網を渡している。山も川もこぞってお仕えする神の御代よ。)
・巻1-39 38番歌に対する反歌
「山川も 依りて仕ふる 神ながら 激つ河内に 船出せすかも」
(山も川もこぞってお仕えする天皇は、神そのものとして激流ほとばしる川辺に船をお出しになることよ。)
・巻1-40 持統天皇の伊勢行幸の際に飛鳥に残った人麻呂が詠んだ一首
「あみの浦に 船乗りすらむ 娘子(おとめ)らが 玉裳の裾に 潮満つらむか」
(あみの浦で船に乗っているだろう少女たちの、あの美しい裳の裾には潮が満ちているだろうか。)
・巻1-41~42 題詞なし
41「釧(くしろ)着く 答志(たふし)の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ」
(美しい釧をつける答志の岬で今日も宮廷に仕える人たちは藻を刈っているだろうか。)
42「潮騒(しほさい)に 伊良湖(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」
(潮が騒ぐ中で伊良湖の島のあたりを漕ぐ船に、恋しい妻は乗っているだろうか。あの荒々しい島のめぐりを。)
・巻1-45 軽皇子の阿騎野(あきの)行啓に同行した際に詠んだ一首
「やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 真木立つ 荒山道(あらやまみち)を 石(いわ)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしへ)思ひて」
(遍く国土をお治めになるわが大君、その皇子である高く輝く日の御子。皇子は神そのものとして神々しく、立派に君臨されている京を後にして、隠り国の泊瀬の山の真木が茂り立つ荒々しい山道を、岩や木々を押し分けて坂鳥の鳴く朝にお越えになり、玉の輝くような夕暮れになると、雪の降る阿騎の大野に旗薄や小竹を押しのけて、草を枕の旅宿りをされている。懐かしき父の想い出を胸に。)
※軽皇子の父である草壁皇子が生前狩りに訪れた地に軽皇子が行啓した
・巻1-46~49 45番歌に対する反歌
46「阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眠も寝らめやも 古(いにしへ)思ふに」
(阿騎野に仮寝する旅人は、くつろいで寝入ることなどできるだろうか。これほど昔のことが思われるものを。)
47「ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とそ来し」
(草を刈るしかない荒野だが、黄葉のように去っていった君の形見として、やって来たことだ。)
48「東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月西傾(かたぶ)きぬ」
(東方の野の果てに夜明けの光がさしそめる。振り返ると西の空に月が傾いている。)
49「日並皇子(ひなみしみこ)の 尊(みこと)の 馬並(な)めて 御狩(みかり)立たしし 時は来向かふ」
(日並皇子の尊が馬を連ねて、今しも出狩なさろうとした、あの時がやって来た。)
※日並皇子=草壁皇子のこと。草壁皇子が馬を並べて出猟したかつての時刻がやってきて、そして同じように今度はその子である軽皇子が出猟する様子を詠っている。
・巻2-131 石見に赴任していた人麻呂が大和に戻る際に、石見に残してきた現地妻を想って詠んだ恋歌
「石見(いわみ)の海 角の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 鯨魚(いさな)とり 海辺を指して にきた津の 荒磯の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 波こそ来寄せ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万度(よろづたび) かへりみすれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしなえて 思ふらむ 妹が門見む 靡けこの山」
(石見の海の都野の浦を、よい浦がないと人は見るだろう。よい潟もないと人は見るだろう。たとえ浦はなくても、たとえ潟はなくても、鯨もとれるほどの海のこの海岸に向けて、にきた津の荒磯のほとりには、青々と生える美しい藻、海底深く生える藻を、朝は風が寄せて来るし、夕べもまた波が寄せて来る。この波といっしょに寄って来る玉藻のように私に寄りそって寝た妻を、露や霜の置くように置いて来たので、この旅路の多くの曲り角ごとに、何度も振り返って見るけれど、ますます遠く妻の里は離れてしまった。ますます高く山も越えて来た。夏草のように思いしおれて、わたしのことを思っているだろう妻の家の門を、わたしは見たい。靡け、この山よ。)
異伝[巻2-138]
「石見の海 津の浦を無み 浦無しと 人こそ見らめ 潟無しと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 勇魚(いさな)取り 海辺を指して 柔田津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 浪こそ来寄せ 夕されば 風こそ来寄せ 浪の共 か寄りかく寄る 玉藻なす 靡きわが宿(ね)し 敷栲(しきたへ)の 妹が手本(たもと)を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万度 かへり見すれど いや遠に 里放(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 愛(は)しきやし わが嬬の児が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山」
(石見の海の津の浦がないので、よい浦がないと人は見るだろう。よい潟もないと人は見るだろう。たとえ浦はなくても、たとえ潟はなくても、鯨もとれるほどの海のこの海岸に向けて、にきた津の荒磯のほとりに、青々と生える美しい藻、海底深く生える藻を、夜が明けると波が寄せて来るし、夕方になると夕風が寄せて来る。この波といっしょに寄って来る玉藻のように寄り添って寝た美しい妻の袖を露や霜の置くように後に置いて来たので、この旅路の多くの曲がり角ごとに、何度もふりかえって見るけれど、ますます遠く妻の里は離れてしまった。ますます高く山も越えて来たことだ。愛しい妻が夏草のように思いしおれて、私のことを思って嘆いているだろう津野の里を、わたしは見たい。靡け、この山よ。)
反歌
巻2-139「石見の海 打歌(うつた)の山の 木の間より わが振る袖を 妹見つらむか」
(石見の海の、打歌山の木々の間からわたしの振っている袖を、妻は見ただろうか。)
・巻2-132~133 131番歌に対する反歌
132「石見(いわみ)のや 高角(たかつの)山の 木(こ)の間より わが振る袖を 妹(いも)見つらむか」
(石見国の高角山の木々の間から私の振っている袖を、妻は見ているだろうか。)
・異伝[巻2‐134]
「石見なる 高角山の 木の間ゆも わが袖振るを 妹見けむかも」
(石見の高角山の木の間を通して私が袖を振ったのを、妻は見ただろうか。)
133「笹の葉は み山もさやに さやげども あれは妹(いも)思ふ 別れ来ぬれば」
(笹の葉は山に満ちてざわざわと風に鳴っているが、私の心は別れて来た妻を一途に思っている。)
・巻2-135 石見に派遣されていた人麻呂が大和に戻る時に詠んだもう一首の歌
「つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛の崎なる 海石にそ 深海松生ふる 荒磯にそ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し児を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は いくだもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへりみすれど 大船の 渡の山の黄葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠ろひ来れば 天伝ふ 入日さしぬれ ますらをと 思へるわれも 敷たへの 衣の袖は 通りて濡れぬ」
(角ばった岩石の石見の海の、言葉も通じぬ韓―辛の崎の海中の岩石には、底深く海松が生える。荒磯には美しい藻が生える。その玉藻のように靡き寄って寝た妻を、深海松のごとくも深く思うのだが、夜を共にした日も僅かで、蔓草のように離ればなれに別れて来たので、肝々と向かい合う心も痛み、思いを残しながらふり返り見るのだが、大船が海原を渡るような渡の山の黄葉が乱れ散って、妻の振る袖もはっきり見えず、妻とともに隠る屋上山の雲間に空を渡りゆく月のように、妻の里は隠れてしまったので、天空を西に移っていった夕日がさして来ると、雄々しい男子と思っている自分も、美しい衣の袖が涙で濡れ通ってしまった。)
・巻2-136~137 135番歌に対する反歌
136「青駒の 足掻(あがき)を早み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける」
(馬の歩みが早いので、雲のはるかに妻の家のあたりを後にして来てしまった。)
137「秋山に 散らふ黄葉(もみぢば) しましくは な散りまがひそ 妹(いも)があたり見む」
(秋の山に散る黄葉よ、しばらくは散り乱れてくれるな。妻の家のあたりを見たいのだ。)
・巻2-146 紀伊国で結び松を見た時に有間皇子を偲んで詠った挽歌
「後(のち)見むと 君が結べる 岩代の 小松がうれを また見けむかも」
(後でまた見たいと思って皇子が結んだ岩代の小松の枝先を、また見れただろうか。)
※有間皇子…孝徳天皇の第一皇子で、母は妃・阿部小足媛。謀反を企んだとして中大兄皇子らにより絞首刑に処された。
・巻2-167 草壁皇子薨去に寄せた挽歌
「天地(あまつち)の 初(はじめ)の時 ひさかたの 天の川原に 八百万(やおよろづ) 千万(ちよろづ)神の 神集ひ 集ひいまして 神分(かむあが)ち 分ちし時に 天照らす日女(ひるめ)の尊(みこと) 天をば知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲の 八重かき分けて 神下(かむくだ)し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛鳥(とぶとり)の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろぎ)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神上り 上りいましぬ わご大君 皇子の尊の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満しけむと 天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の丘に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝毎に 御言(みこと)問はさず 日月の まねくなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも」
(天地の初めの時、遥か彼方の天の川原に、八百万、一千万という大勢の神々が神々しくお集りになり、神々をそれぞれの支配すべき国々に神としてお分かちになった時、天照大神は天を支配なさるというので、その下の葦原の中つ国を天地の接する果てまで統治なさる神の命として、天雲の八重に重なる雲をかき分けて、神々しくお下し申した天高く輝く日の御子は、飛鳥の浄御原の宮に神として御統治なさり、やがて天上を、天皇のお治めになる永生の国として、天の石門を開いて、神としておのぼりになった。わが大君たる皇子の尊が天下を御統治なさったら、春の花のように貴いことだろう、満月のごとくにみち足りておられるだろうと、天下のあちこちの人が、まるで大船のような期待を心にもって、天の慈雨を待ち仰ぐごとくであったのに。どういうご深慮からか、ゆかりもない真弓の丘に殯宮の柱も立派にお建てになり、殯宮を高々とお作りになって、いつの朝の奉仕にもお言葉を賜わらぬ月日が多くなったことだ。そのために、皇子の宮にお仕えした人々は、どうしたらよいか途方にくれている。)
・巻2-168~170 167番歌に対する反歌
168「ひさかたの 天(あめ)見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも」
(遥か天空を見るように仰ぎ見た皇子の御殿の荒れていくことが惜しまれる。)
169「あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも」
(茜色を帯びて日は今日も輝いているけれど、ぬばたまのような夜空を渡る月のように皇子がお隠れになってしまったことが惜しい。)
170「島の宮 勾(まがり)の池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜(かづ)かず」
(島の宮の勾の池に放たれた鳥は人の目を恋しがって池に潜ろうともしない。)
※草壁皇子は現在の島庄にあった島の宮という離宮に住んでいた。元は蘇我氏の邸宅で、飛鳥川の水を引き入れて、あちらこちらに滝や池が作られており、蘇我氏が滅ぼされた後、母・持統天皇の母方が蘇我氏である草壁皇子に与えられたと思われる。この歌では、島の宮の匂の池にいる放ち鳥が、皇子の死後は人の目を恋しがって池に潜らないと詠っている。
「飛鳥(とぶとり)の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 生ふる玉藻は 下(しも)つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし つまのみことの たたなづく 柔肌すらを 剣大刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寝ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂(たまたれ)の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉裳はひづち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故」
(飛鳥にある明日香川の川上の美しい藻は、川下に流れもつれあう。その藻のようにあちらこちらに寄りそい靡きあったあなたは、重ね合ったやわらかな肌さえも、剣や大刀のように身にそえて寝ていないので、ぬばたまの実のような黒闇の夜は、寝床も荒れているでしょう。そう思うと私の心は慰めかねて、きっとお逢いできるだろうかと思って、玉を貫く越智の大野の、朝の露に美しい裳は濡れ、夕べの霧に衣は濡れて、草を枕の旅寝をしている。もう生きて逢えない君だから。)
※忍壁皇子・泊瀬部皇女は天武天皇の皇子女で、ともに母が嬪・宍人かじ媛娘の同母兄妹。泊瀬部皇女は川島皇子(天智天皇第三皇子)の妃となっており、川島皇子が薨去した時に忍壁皇子が泊瀬部皇女に贈る歌を代作したものとされている。
・巻2-195 194番歌に対する反歌
「敷妙(しきたへ)の 袖かへし君 玉垂(たまたれ)の 越智野(をちの)過ぎ行く またも逢はめやも」
(美しい袖を交わしたあなたは玉を貫く越智野にお隠れになる。再び逢うことはあるのだろうか。)
・巻2-196 明日香皇女が薨去して殯宮に奉られた時に寄せた挽歌
「飛鳥(とぶとり)の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 石橋渡し 下(しも)つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる 何しかも わご大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こや)せば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみぢば)かざし 敷妙(しきたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛(め)づらしみ 思ほしし 君と時々 いでまして 遊びたまひし 御食(みけ)向ふ 城上(いわき)の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言(めこと)も絶えぬ 然れかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋妻(かたこひづま) 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひしなえて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代(よろづよ)までに はしきやし わご大君の 形見かここを」
(飛鳥にある明日香川の、川上には飛び石の橋を渡し、川下には板の橋をかける。石の橋に生えては靡く玉藻は、なくなればまた生いそだつ。板の橋に豊かにはえた川藻も、枯れてはまた芽ばえて来るというのに、わが皇女は、お立ちになると玉藻のように身を横たえて、川藻のように靡いてむつみ合った夫君の朝の宮をどうしてお忘れになったのだろうか。なぜ夕べの宮をお去りになるのだろうか。この世の人と考えていた時には、春は花を折りかざし、秋になると黄葉をかざして、美しい衣の袖をたずさえては、鏡のように見飽きず、満月のようにますます慕わしくお思いになっていた夫君とともに、時々おいでになり遊ばれた、御食を捧げる城の上の宮を永遠の殿とお決めになり、あぢ鴨を捕える網の目で見ることも、口で物いうこともなくなってしまった。それ故に言いようもなく悲しみ、ぬえ鳥のように片恋する片恋しつづけ、朝の鳥のように行き来する御子が、夏の草のように悲しみにしおれ、夜空の星のように移りゆき、大船が揺られるように動揺されているのを見ると、お慰めすることもできず、そこにどういう方法があるというのか。皇女のお噂だけでも、御名だけでもいつまでも天地とともに永久にお慕いしていこう。お名前にかかわる明日香川を、万年の後までも愛しい皇女の形見として。)
・巻2-197~198 196番歌に対する反歌
197「明日香川 しがらみ渡し 塞(せ)かませば 流るる水も のどにかあらまし」
(明日香川に堰を渡して流れを止めたなら、流れ去る水も長閑になるだろうに。皇女の御魂が遠ざかっていくのも緩やかになるだろう。)
198「明日香川 明日だに見むと 思へやも わご大君の 御名忘れせぬ」
(明日香川のその名のようにせめて明日だけでもお逢いできようと、私はどうして思おうか。いつまでも、わが皇女のお名前は忘れられない。)
・巻2-199 高市皇子薨去に寄せた挽歌
「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まがみ)が原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神(かむ)さぶと 磐(いは)隠ります やすみしし わご大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣(こまつるぎ) 和蹔(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あまも)りいまして 天(あめ)の下 治め給ひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 国を治めと 皇子ながら 任(よさ)し給へば 大御身(おほおみ)に 大刀(たち)取り佩(は)かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 斉(ととの)ふる 鼓の音は 雷(いかづち)の 声(おと)と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 捧げたる 幡(はた)の靡きは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに着きて ある火の 風の共(むた) 靡くがごとく 取りて持てる 弓弭(ゆはず)の騒(さわき) み雪降る 冬の林に 旋風(つむじかぜ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来たれ 服従はず 立ち向かひしも 露霜の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の あらそふ間(はし)に 渡会(わたらひ)の 斎の宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わご大君の 天の下 申し給へば 万代(よろづよ)に 然しもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に わご大君 皇子の御門を 神宮(かむみや)に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿じもの い葡(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い葡(は)ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬(かむはふ)り 葬りいませて 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の宮を 常宮と 高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども わご大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如(ごと) ふり放け見つつ 玉襷 かけて偲はむ 恐くありとも」
(口に出して言うのも憚られるほど畏れ多く、言葉にするのもひどく畏れ多いことですが……明日香の真神原に天の神の御殿を恐れ多くもお定めになり、神のようにお隠れになっている我が大君⦅天武天皇⦆が治めておられる地方の国へ……真木の立つ不破山を越え、高く険しい吾妻の地へと進み、和蹔の原の行宮に天降りなさって天下を治め、国を定めようとして、東国の兵をお呼びになり、荒ぶる人々を従わせ、服従しない国を平定せよと皇子にお命じになった。その皇子は尊い御身に大刀を帯び、御手に弓を持ち、軍勢を率いて整えた。その太鼓の音は雷のように響き、角笛の音も敵を見た虎の咆哮のようで、人々が震え慄くほどである。掲げられた旗は、春になって野に灯る火が風に靡くように揺れ、弓の弭の鳴る音は、雪の降る冬の林を吹き荒れる旋風のように響き渡り、放たれた矢は激しく大雪が乱れ降るように飛び交った。敵は抵抗するも、露や霜のように消えてしまうほど儚く、争いのうちに滅びていった。その時、伊勢の神宮から神風が吹き起こり、天雲を覆って日の光も見えないほどの闇となり、神の力によって国が定められ、瑞穂の国は治められた。こうして我が大君が天下をお治めになるので、この国は永遠に続くことだろう。そう思われていたのに……栄えゆくその時に我が大君は皇子の宮を神宮として整え、仕えていた人々も白い麻の衣を着て、日ごとに地に伏し、夕方には宮殿を仰ぎ見て這うようにして仕えるも、最早お仕えすることもできず、春の鳥のように彷徨い、嘆きもまだ尽きず、悲しみも尽きないうちに……百済の原から神として葬られ、城上の宮を永久の宮として高くお祀りし、神として鎮まってしまわれた。それでも我が大君が永遠を願ってお造りになった香具山の宮がそのまま滅びてしまうことなどあるだろうか。畏れ多いことではあるが、天のように仰ぎ見ながら、私は心にかけて偲び続けよう。)
・巻2-200~201 199番歌に対する反歌
200「ひさかたの 天(あめ)知らしぬる 君故に 日月(ひつき)も知らず 恋ひ渡るかも」
(遥か彼方の天をお治めになってしまった君なので、月日の経つのもわからず恋いつづけることだ。)
201「埴安の 池の堤(つつみ)の 隠沼(こもりぬ)の 行方を知らに 舎人(とねり)は惑ふ」
(埴安の池の堤に囲まれた隠沼の水のように、どこに流れていくとも分からず舎人たちは迷っている。)
・巻2-207 軽の地にいた人麻呂の妻が亡くなった際に詠んだ挽歌
「天(あま)飛ぶや 軽の道は 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さね葛(かづら) 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 岩垣淵(いはがきふち)の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるが ごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去(い)にきと 玉梓の 使(つかひ)の言へば 梓弓 音に聞きて 言はむすべせむ すべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば あが恋ふる 千重(ちへ)の一重(いちへ)も 慰もる 心もありやと 吾妹子が やまず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖そ振りつる」
(空を飛ぶ雁、軽の地はわが妻の住む里だから、ずっと見ていたいのだが、絶えず行くと人の目が多く、しばしば行くと人が知ってしまうので、さね葛のようにまた後で逢おうと、大船を頼りにする気持ちで、玉となって輝く石に囲まれた淵のように逢いもせず隠って恋い慕っていると、空を渡って西に没していく太陽のように、照っている月が雲に隠れるように、藻のように靡き寄った妻は紅葉のように散っていったと、玉梓を携えた使いが来て言うので、梓弓の音を聞くように知らせを聞いて、何と言いどうしたらよいのか途方に暮れて、じっとしてはいられないので、この恋心の千分の一も慰められるだろうかと、妻がいつも出て見ていた軽の市に私も行って、立ち止まって聞いてみると、美しい襷をかける畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえて来ないし、玉桙の道を通る人も、一人として似た人は行かないので、仕方なく妻の名を呼んで袖を振ったことだ。)
・巻2-208~209 207番歌に対する反歌
208「秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも」
(秋山の黄葉が茂っているので、道に迷ってしまった妻を探そうにも、山道がわからない。)
209「黄葉の 散りゆくなへに 玉梓の 使を見れば 逢ひし日思ほゆ」
(黄葉の散りゆく折に玉梓を携えた使者を見ると、妻と逢った日が思い出される。)
・巻2-210 妻の死に寄せた挽歌
「うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し 走出(はしりで)の 堤に立てる 槻の木の こちごちの 枝(え)の 春の葉の しげきがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 児(こ)らにはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの もゆる荒野(あらの)に 白妙の 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子(わぎもこ)が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物し無ければ 男じもの 腋(わき)はさみ持ち 吾妹子と 二人わが寝し 枕つく 妻屋(つまや)の内に 昼はも うらさび暮し 夜はも 息づき明し 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしを無み 大鳥の 羽易の山に あが恋ふる 妹はいますと 人の言へば 石根(いはみ)さくみて なづみ来し 良けくもそ無き うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば」
(この世の人と思っていた時に、手を携えて私たち二人が見た、すぐ近くの堤にそびえる欅の木のあちこちの枝に春先の葉が一面に茂るように恋し、長く頼りにしていた妻ではあったが、この世の運命に背くことはできないから、陽炎の燃える荒涼とした野に純白の大空の領巾に包まれて、鳥のように朝飛び立ち、落日のごとく隠れてしまった。妻が形見として残した幼な子が母を求めて泣く度に、与えるものも無いので、男らしくもなく脇にかかえ上げて、妻と二人で寝て枕を交わした妻屋の中で、昼は一日を心さびしく過ごし、夜はため息をついて明け方を迎え、いくら嘆いても、いくら恋しく思っても逢う方法もないから、大鳥が羽を交わすあの山に恋しい妻がいると人が言うので、岩をふみ分け苦しみながら来たが、その甲斐もない。この世の人と思っていた妻が、玉のゆらめくような仄かにさえ見えないことを思うと。)
異伝(巻2-213)
「うつそみと 思ひし時 携へて わが二人見し 出で立ちの 百枝槻(ももえつき)の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 妹にはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの もゆる荒野に 白たへの 天領巾隠り 鳥じもの 朝立ち行きて 入り日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り委す 物しなければ 男じもの 腋はさみ持ち 吾妹子と 二人わが寝し 枕つく 妻屋の内に 昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明し 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしを無み 大鳥の 羽易の山に 汝が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し 良けくもぞ無き うつそみと 思ひし妹が 灰にていませば」
(この世の人と思っていた時に手を携えて私たち二人が見た、すぐ近くの百枝の欅の木があちこち枝を伸ばすように、春先の葉が一面に茂るように恋し、末長く頼りにしていた妻ではあったが、この世の運命に背くことはできないから、陽炎のもえる荒涼とした野に純白の大空の領巾に包まれて、鳥のように朝飛び立ち、落日のごとく隠れてしまった。妻が形見として残した幼な子が母を求めて泣く度に、取って渡すものも無いので、男らしくもなく腋にかかえ上げて、妻と二人で寝て枕を交わした妻屋の中で、昼は一日を心さびしく過ごし、夜はため息をついて明け方を迎え、いくら嘆いても、いくら恋しく思っても逢う方法もないから、大鳥が羽を交わすあの山に恋しい妻がいると人が言うので、岩をふみ分け苦しみながら来た、その甲斐もない。この世の人と思っていた妻が、灰となっておられるのだから。)
・巻2-211~212 210番歌に対する反歌
211「去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせども 相(あひ)見し妹は いや年離(さか)る」
(昨年は共に見た秋の月が今年も同じように照っているけれども、一緒に見た妻は亡く、ますます年月は遠ざかることよ。)
異伝(巻2-214)「去年見てし 秋の月夜は 渡れども 相見し妹は いや年離る」
(昨年は共に見た秋の月が今年も同じように渡っているけれども、一緒に見た妻は亡く、ますます年月は遠ざかることよ。)
212「衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山路(やまぢ)を行けば 生けりとも無し」
(衾道を引手の山の中に妻を置いて、山道を帰れば生きた心地もしない。)
異伝(巻2-215)「衾道を 引出の山に 妹を置きて 山路思ふに 生けりともなし」
(衾道よ、引手の山中に妻を置いて帰る山道を思うと、生きている心地がない。)
・巻2-216 妻の死に寄せた挽歌
「家に来て わが屋を見れば 玉床(たまどこ)の 外(よそ)に向きけり 妹が木枕(こまくら)」
(家に帰って来てわが屋を見ると、妻の木枕は美しい寝床のあらぬ方を向いていることだった。)
・巻2-217 吉備国の津郡出身の采女が亡くなった際に寄せた挽歌
「秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる児(こ)らは いかさまに 思ひ居れか 栲縄(たへなは)の 長き命を 露こそは 朝に置きて 夕は 消ゆと言へ 霧こそは 夕に立ちて 朝(あした)は失(う)すと 言へ梓弓 音聞くわれも おほに見し 事悔しきを 敷妙(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 剣大刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寝けむ 若草の その夫(つま)の子は さぶしみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし児らが 朝露のごと 夕霧のごと」
(秋山が色づいたような美しい妻、なよなよとした竹のようにしなやかな娘は、どう考えていたのか。栲縄のような長き命であるものを、露だったら朝おりて夕方にはもう消えるというし、霧だったら夕方に立ちこめても翌朝にはなくなってしまうというが、梓の弓音のように聞いていた私もぼんやりとしか見たことがなく悔しいのに、布を重ねた枕のように手を交わしあって、剣や大刀のように体をよせて寝た若草のような妻は、今は寂しく寝ているだろうか。死を悔やんで恋い慕っているだろうか。思いがけずに死んでいったあの娘が、朝露のようで、夕霧のようで。)
・巻2-218~219 217番歌に対する反歌
218「楽浪(ささなみ)の 志賀津(しがつ)の児(こ)らが 罷道(まがりぢ)の 川瀬の道を 見ればさぶしも」
(楽浪の志賀津の乙女が世を去っていった、川瀬の道を見るとさびしいことだ。)
219「天数(あまかぞ)ふ 凡津(おほつ)の児(こ)が 逢ひし日に おほに見しくは 今ぞ悔しき」
(天にまで数えあげるほど多い――大津の乙女が私と逢った日にぼんやりと見たことは、今は悔まれることだ。)
・巻2-220 讃岐国の狭岑島を訪れた際に、岸の岩場に倒れていた行路死者を見て悼んで詠んだ挽歌
「玉藻よし 讃岐の国は 国柄(くにから)か 見れども飽かぬ 神柄(かむから)か ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)と共に 足り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来る 中の水門(みなと)ゆ 船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)とり 海を恐(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯面(ありそも)に 廬(いほ)りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷たへの 枕になして 荒床に ころ伏す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは」
(玉のように藻も美しい讃岐の国は、国の性格によるのか、見飽きないことだ。神の性格によるのか、たいへん貴いことだ。天地や日月とともに満ち足りてゆくだろう神の御顔として言い伝えて来た讃岐の国、その中の港から船を浮かべて漕ぎ出して来ると、潮時の風が船を雲に吹きつけているので、海上を見ると大波がうねり、岸辺をふりかえると激しく白い波が立っている。勇ましい鯨も取るという海が恐ろしいので、漕ぎ進めようとしていた船の梶も停めて、あちこちに島は多いが、中でもその名の美しい狭岑の島の荒磯に上って仮小屋を作っていると、波の音も絶え間ない海岸を、布を重ねるどころか、枕として、荒々しい岩を寝床に倒れている君、あなたの家を知っているのなら行ってこの事を告げようものを、あなたの妻が知ったなら、やって来て言葉もかけようものを、玉桙の道さえ知らないで、不安の中に待ち恋い慕っているだろうか。彼の愛しい妻は。)
・巻2-221~222 220番歌に対する反歌
221「妻もあらば 摘みて食げまし 沙弥(さみ)の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらずや」
(ここに妻もいるのなら、あなた達は摘んで食べもするだろうに。沙弥の山の野に生えた嫁菜は、もう時期を過ぎてしまったではないか。)
222「沖つ波 来よる荒磯(ありそ)を 敷たへの 枕とまきて 寝(な)せる君かも」
(沖の波がうち寄せる荒磯を、衣を重ねた枕として寝ておられるあなたよ。)
・巻2-223 人麻呂が石見国で亡くなる直前に詠んだとされる挽歌
「鴨山の 岩根しまける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」
(鴨山の岩を枕としている私を、何も知らずに妻は待ちつづけているだろうか。)
・巻3-235 人麻呂が天皇(天武天皇か持統天皇)を讃えて詠んだ一首
「大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも」
(大君は神でいらっしゃるので、天雲の雷の上に仮の宿りをしておられることよ。)
・巻3-239 長皇子が猟に出た時に詠まれた一首
「やすみしし わご大王 高光る わが日の御子の 馬並めて み猟(かり)立たせる 弱薦(わかこも)を 猟路(かりぢ)の小野(をの)に 猪鹿(しし)こそば い匍(は)ひ拝(をろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もと)れ 猪鹿じもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 恐(かしこ)みと 仕へ奉りて ひさかたの 天見るごとく 真澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大王かも」
(遍く国土を統治なさるわが大君、高く輝くわが日の御子が、馬を並べて猟におでかけになる。若い薦を刈る猟路の野には、猪や鹿こそは腹ばい拝み、鶉こそは腹ばい回る。そのように我々も猪や鹿のように伏し拝み、鶉のように這い回って、恐れ多いこととしてお仕えして、彼方の空を望むごとく清らかな鏡を仰ぐように見ても、なおいっそう春草のように慕わしいわが大君であるよ。)
※長皇子…天武天皇の第七皇子で、母は妃・大江皇女(天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹)。
・巻3-240~241 239番歌に対する反歌
240「ひさかたの 天ゆく月を 網に刺し わご大王は 蓋(きぬがさ)にせり」
(遥かな天空を渡る月を網にとらえて、わが大君は蓋にしていらっしゃる。)
241「皇(おほきみ)は 神にしませば 真木の立つ 荒山中(あらやまなか)に 海を成すかも」
(大君は神でいらっしゃるので、真木の茂り立つ荒々しい山中にまで海をお作りになることよ。)
・巻3-249~256 人麻呂が旅先で詠んだ一首
249「御津(みつ)の崎 波を恐(かしこ)み 隠(こも)り江の 船に公宣(きみの)る 美奴(みぬ)の島へに」
(御津の崎の波が恐ろしいので、入江の舟で君は祈っている。美奴の島に。)
250「玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近づきぬ」
(美しい藻を刈る敏島を離れて、夏草の茂る野島の崎に船は近づいた。)
251「淡路の野 島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹きかへす」
(淡路の野島の崎の浜風に、妹の結んだ紐を吹きかえさせることだ。)
252「荒たへの 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 白水郎(あま)とか見らむ 旅行くわれを」
(荒い布の藤――藤江の浦に鱸を釣る海人と見るだろうか。旅をする私を。)
253「稲日野(いなびの)も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋(こほ)しき可古の 島見ゆ」
(古い伝承にも語られる稲日野も行き過ぎがたく思っていると、心に恋しく思っていた加古の島が見えて来る。)
254「留火(ともしび)の 明石大門(あかしおほと)に 入(い)る日にか 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず」
(灯火の明るい明石海峡に入っていく日に、漕ぎ別れてゆくのだろうか。家のあたりを見ずに。)
255「天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ」
(天路遠い地方からの長い道のりをずっと恋いつづけて来ると、今や明石海峡から大和の山々が見える。)
256「飼飯(けひ)の海の 庭好(よ)くあらし 刈薦(かりこも)の 乱れ出づ見ゆ 海人の釣船」
(飼飯の海の海上は穏やからしい。刈りとった薦のようにあちこちから漁師の釣り船が漕ぎ出して来るのが見える。)
・巻3-261 人麻呂が新田部皇子を讃えて詠んだ一首
「やすみしし わご大王 高輝らす 日の御子 しきいます 大殿の上に ひさかたの 天伝ひ来る 白雪(ゆき)じもの 往きかよひつつ いや常世(とこよ)まで」
(遍く国土をお治めになるわが大君。その高く輝く日の皇子がお治めになる大殿の上に遥か遠い天を伝って降り来る白雪のように、私もお仕えに参りましょう。永遠の後までも。)
※新田部皇子…天武天皇の第十皇子で、母は夫人・五百重娘(藤原鎌足の娘)
・巻3-262 261番歌に対する反歌
「八釣(やつり)山 木立(こだち)も見えず 降りまがふ 雪のさわける 朝(あした)楽しも」
(八釣山の木々も見えぬほどに降りまがう、雪の乱れふる朝は楽しいことです。)
・巻3-264 人麻呂が近江国から藤原京に戻って来る時に、宇治川の畔で詠んだ一首
「もののふの 八十氏河(やそうぢがは)の 網代木(あじろぎ)に いさよふ波の 行方知らずも」
(もののふの多くの人、その氏――宇治川の網代の木に漂いつづける波のように、行く末のわからないことよ。)
・巻3-266 人麻呂が琵琶湖のあたりで詠んだ一首
「近江の海 夕波千鳥(ゆふなみちどり) 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ」
(近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと、心もしおれるように昔のことが思われる。)
・巻3-303~304 人麻呂が筑紫国に下向した際に詠んだ一首
303「名くはしき 印南(いなみ)の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は」
(名も美しい印南の海の、沖の波の千重の彼方に隠れてしまった。大和の山々は。)
304「大君の 遠の朝廷(みかど)と あり通ふ 島門(しまと)を見れば 神代(かみよ)し思ほゆ」
(大君の遠い朝廷として人々が通いつづける海路の、島山の間を見ると神代の昔が思われる。)
・巻3-426 人麻呂が香具山で倒れている旅人の亡骸を見て悼み偲んだ一首
「草枕 旅の宿(やどり)に 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに」
(草を枕とする旅の宿りに、誰の夫だろうか。故郷を忘れているのか。家の人々も待っているだろうに。)
・巻3-428 土形娘子(ひぢかたのをとめ)という女性が亡くなって葬られた時に寄せた挽歌
「こもりくの 泊瀬(はつせ)の山の 山の際(ま)に いさよふ雲は 妹にかもあらむ」
(隠り国の初瀬の山の、山のあたりに漂っている雲は、あの娘子であろうか。)
・巻3-429~430 出雲娘子(いづものをとめ)という女性が亡くなって葬られた時に寄せた挽歌
429「山の際(ま)ゆ 出雲の児(こ)らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく」
(山のあたりから出る雲――出雲娘子は霧だからか、そうではないのに、吉野の山の嶺にたなびくことよ。)
430「八雲(やくも)さす 出雲の児らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ」
(八雲が湧き出る出雲娘子の黒髪は、吉野の川の奥に揺らめいている。)
・巻4-496~499 恋歌
「み熊野の 浦の浜木綿(はまゆふ) 百重(ももへ)なす 心は思へど 直(ただ)に逢はぬかも」
(み熊野の浦の浜木綿のように幾重にも心で思っているのに、直接逢うことはできないでいるよ。)
「古に ありけむ人も あがごとか 妹に恋ひつつ 寝(い)ねかてずけむ」
(昔に生きた人々も私のように、妻を恋いつつ寝つくこともできなかったのだろうか。)
「今のみの わざにはあらず 古の 人そまさりて哭(ね)にさへ泣きし」
(今だけのことではない。昔の人だって、私以上に恋に声を上げて泣いたことだ。)
「百重にも 来しかぬかもと 思へかも 君が使ひの 見れど飽かざらむ」
(何度でも重ねて来てほしいと思うからか、あなたのお使いは見飽きることがないのでしょう。)
・巻4-501 妻に対する恋歌
501「娘子(をとめ)らが 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みずがき)の 久しき時ゆ 思ひきあれは」
(巫女達が神を迎えて袖を振る、布留山の社の瑞垣が年久しいように、長い月日をずっと恋いつづけて来たよわたしは。)
502「夏野行く 小鹿(をしか)の角の 束の間も 妹が心を 忘れて思へや」
(夏の野を歩む若い牡鹿の角のように、ほんの僅かの間も妻の心を忘れることがあるだろうか。)
503「玉衣の さゐさゐしづみ 家の妹に 物言はず来て 思ひかねつも」
(美しい絹の衣がさやさやとしなだれるように心も沈んで、家の妻に語らずに出て来たので、思いにたえられないことだ。)
人麻呂の謎
官位について
同時代の各種史書上に人麻呂に関する記載がなく[注釈 4]、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序では五位以上を示す大夫を付して「柿本大夫」と記され、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」[注釈 5]と書かれている。また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。
江戸時代、契沖や賀茂真淵らが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱えた。以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
梅原猛による異説
「人麻呂は下級官吏として生涯を送り、湯抱鴨山で没した」との従来の説に対して、梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ、鴨島沖で刑死させられたとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。また、梅原は人麻呂と、伝説的な歌人・猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘した。しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。古代律令の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原が言うように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などに何一つ記されていない点などに問題があるからである。なお、この梅原説を参考にして、井沢元彦が著したデビュー作が『猿丸幻視行』である(ただし作中人物によって、益田勝実による批判が紹介されており、梅原説を肯定はしていない)。
『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた[注釈 7]人麻呂ではないかと梅原らは唱えた[12][13]。しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)、高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫など語を含んだ貴人が幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。柿本猨と人麻呂の関係については、ほぼ同時代を生きた同族という以上のことは明らかでない。益田勝実は、梅原が、人麻呂は処罰として名前を変えられ、位階も下げられたとし、死ぬまでには許されており位階ももとに戻ったため正史に記載されたとしていることから、それなら名前が猨のままなのはおかしいと指摘し、梅原はついに答えることができなかった。
旧跡
終焉の地
その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(旧・石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり、水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。
その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされる説があり、正確な位置は不明になっている。また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作(前述)で反論の的になっている[14]。
神社
平安時代後期以降、人麻呂は歌人として称えられるだけでなく、和歌の上達などに霊験がある存在として崇拝されるようになった。歌会に、人麻呂の絵姿と歌(人麻呂作と考えられた「ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ」)を掲げて、歌の上達を祈願する人麿影供(えいぐ)が行われるようになった。『十訓抄』などによると、藤原兼房が夢に現れた人麻呂を絵に描かせ、後に藤原顕季がこれを模写して影供を始めたと言われている。
人麻呂を神として祀る神社や祠も各地に建てられた。高津柿本神社や柿本神社 (明石市)が著名である。「ひとまる」から「火止まる」「人産まる」と連想されて、庶民に防火・安全の神とされた例もある[15]。
脚注
注釈
- ↑ 伊藤博・橋本達雄などによる。
- ↑ 伊藤博による。
- ↑ ただし人麻呂が石見国で死んだというのが虚構だとするのならば、なぜ人麻呂が石見国に結び付けられたのか(または人麻呂自身がなぜ石見国について取り上げたのか)、その理由について説得力のある説明は未だない。
- ↑ 後世の資料であるが、「石州益田家系図」では正八位上・石見掾とする[9]。
- ↑ ただし『古今和歌集』の古い伝本の多くはこの箇所を「おほきみみつのくらゐ」としており、「おほきみつのくらゐ」としているのは藤原定家が書写校訂した系統の写本に限られている。しかしでは、「おほきみみつのくらゐ」とは何なのかこれもまた不明である[10]。
- ↑ 『万葉集』巻第三には大津皇子の辞世とされる歌があるが(416番)、その詞書には「大津皇子の死(ころ)されし時に(以下略)」とある。死の直前には身分に関わりなく「死」の字を使い、その人物の死亡が間違いない時点で「薨」や「卒」を使ったと見られる。人麻呂の場合もその詞書に「死に臨みし時に」とあり、この「死」の字のことをもって人麻呂が六位以下であったかどうかは判断できない[11]。
- ↑ 宇佐八幡宮神託事件で称徳天皇の怒りを買い、一時「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名された。
出典
- ↑ 『万葉集』巻10・2033左注
- ↑ 『万葉集』巻2・217-219
- ↑ 北山茂夫 1972, pp. 1–18.
- ↑ 北山 2006, §その詩人的前歴を探る.
- ↑ 『万葉集』巻2・220-222
- ↑ 『万葉集』巻2・223-227
- ↑ 窪田空穂『万葉集評釈 巻第2』東京堂、1952年、344頁。
- ↑ 『勅撰作者部類』
- ↑ 鈴木真年蔵書.
- ↑ 久曽 1989.
- 1 2 伊藤雅光「『日本書紀』における"崩" "薨" "卒" "死" の使い分けについて」『國學院雜誌』第84巻12(920)、國學院大學、1983年12月、42-62頁。
- ↑ 梅原 1983.
- ↑ 篠原 1990.
- ↑ 梅原 2001.
- ↑ 「歌の聖」から「歌の神」へ高岡市万葉歴史館/平成13年度・春の特別企画展「柿本人麻呂とその時代」解説(2018年6月29日閲覧)
参考文献
万葉集
- 佐々木信綱 編『新訂 新訓 万葉集 上巻』岩波書店〈岩波文庫〉、1927年。
- 佐々木信綱 編『新訂 新訓 万葉集 下巻』岩波書店〈岩波文庫〉、1927年。
- 佐々木信綱 編『新訂 新訓 万葉集 上巻』(改版)岩波書店〈岩波文庫〉、1954年。
- 佐々木信綱 編『新訂 新訓 万葉集 下巻』(改版)岩波書店〈岩波文庫〉、1954年。
- 佐々木信綱 編『新訂 新訓 万葉集 下巻』(改版 28刷)岩波書店〈岩波文庫〉、1955年。
賀茂真淵
- 賀茂真淵『万葉集考 : 6巻 第1冊 万葉集巻一、二之考』前川源七郎。
- 賀茂真淵『賀茂真淵全集 第3』(国学院編輯部 編、賀茂百樹 校訂)吉川弘文館、1904年。
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- 斎藤茂吉『柿本人麿 〔本篇〕』岩波書店、1934年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 総論篇』岩波書店、1948年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 第1 総論篇』岩波書店〈斎藤茂吉全集 第26巻〉、1954年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 1』岩波書店〈斎藤茂吉全集 第15巻〉、1973年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 評釈篇 巻之上』岩波書店、1937年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 評釈篇 巻之上』岩波書店、1948年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 第2 評釈篇 第1』岩波書店〈斎藤茂吉全集 第27巻〉、1954年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 第3 評釈篇 第2』岩波書店〈斎藤茂吉全集 第28巻〉、1955年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 2』岩波書店〈斎藤茂吉全集 第16巻〉、1974年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 評釈篇 巻之上』岩波書店、1948年。
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- 斎藤茂吉『柿本人麿 評釈篇 巻之下』岩波書店、1949年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 鴨山考補註篇』岩波書店、1935年。
- 斎藤茂吉『柿本人麿 雑纂篇』岩波書店、1940年。
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- 梅原猛『歌の復籍 : 柿本朝臣人麿歌集論 上巻』集英社、1979年。
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- §「その詩人的前歴を探る」 初出 北山茂夫「柿本人麻呂論序説-1-その詩人的前歴を探る」『文学』第40巻第9号、岩波書店、1972年9月、1-18頁、 ISSN 03894029、 NAID 40003384757、 NCID AN00220944。
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- 太田亮「柿本 カキノモト」『姓氏家系大辞典 第1巻』(上田萬年、三上参次 監修)姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1423-1424頁。
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鈴木真年蔵書「東京大学史料編纂所データベース 石州益田家系図」『諸氏家牒』 上。
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- 坂口昌弘『ヴァーサス日本文化精神史』文學の森、2016年 - 「柿本人麻呂 VS 大伴家持」
- German poetic adaptation: Ingmar Werneburg (2023). Als Kaiserin Jito nach Yoshino ging. Gedichte nach Kakinomoto no Hitomaro. Scidinge Hall Verlag Tübingen. ISBN 978-3-947020-20-1. 218 pages (complete poems of Hitomaro and the "Hitomaro-collection" with a comprehensive commentary)
関連項目
外部リンク
- 島根ゆかりの文学者 柿本人麻呂
- 今昔秀歌百撰- 研究者サイト
- 万葉集|柿本人麻呂作
- 『柿本人麻呂』 - コトバンク
固有名詞の分類
- 柿本人麻呂のページへのリンク