MBS会長
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1977年(昭和52年)、8期16年間務めた社長を退任して代表取締役会長となった。後任には毎日新聞社常務取締役を経験した後副社長に迎えていた坂田勝郎を据えた。しかし、高橋は大阪テレビ時代からの腹心だった斎藤を自身の後継者と考え、将来の社長に据える意向だった。斎藤は当時まだ48歳と社長を任せるには若かったため、適当な年齢になるまでのつなぎ的な役割を坂田に期待した。 詳細は「坂田勝郎#MBS移籍、社長就任」を参照 同年、古巣で親会社の毎日新聞社が経営危機に陥った際には社友として新会社への出資に応じ、社外役員にも就任。同社の再建に貢献した。 詳細は「毎日新聞社#沿革」を参照 1980年(昭和55年)1月19日、会長在職のまま肝腫瘍のため死去。享年80(満78歳没)。MBSは会長が空席、坂田のワントップとなり75歳と高齢になっていた坂田の負担が重くなる。同年6月の株主総会で、坂田は社長を退任、大阪テレビ経理部長などを務めた高木一見が後任のMBS第4代代表取締役社長となった。斎藤が高橋の遺訓を受けて第5代社長になるのは、それから5年を経た1985年(昭和60年)のことだった。 詳細は「高木一見#斎藤時代への橋渡し」および「斎藤守慶#MBS社長」を参照
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