8888蜂起への対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/20 03:30 UTC 版)
「ソウ・マウン」の記事における「8888蜂起への対応」の解説
1988年、8888蜂起を受けて社会主義(BSPP)政権が崩壊すると、ビルマ国軍参謀総長を務めていたソウ・マウンはクーデターを起こし、国家法秩序回復評議会(SLORC、軍事政権)を発足、その議長となって実権を握った。彼の政権は1989年に、国名をビルマからミャンマーに、首都名をラングーンからヤンゴンに変えた。 前の独裁者マウン・マウン同様、ソウ・マウンも反対勢力、民主化運動を弾圧した。1990年5月の国民議会(国会)総選挙では、与党・国民統一党が野党勢力(国民民主連盟)に大敗したために政権移譲を拒否し、野党の代表人物らを逮捕した。また、ノーベル平和賞を受賞した民主化運動家のアウンサンスーチーを自宅監禁した。 1992年4月に、健康を理由に公式に引退し、タン・シュエに政権が移った。1997年7月24日、心臓発作のため死去。68歳。
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