7世紀-9世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 14:05 UTC 版)
7世紀中ごろ(653-654年)、アラブ=ムスリムの大征服の波はカーブリスターンにも達し、スィースターン方面軍の将軍アブドゥッラフマーン・ブン・サムラ(カタルーニャ語版、アラビア語版)が派遣した一部隊は、ズンビールらを破ってカーブルの町を一時的に占領した:231。その後、約200年間にわたりズンビールたちは、カーブリスターンを征服しようと遠征を繰り返すムスリムの諸勢力に抵抗したが、最終的には9世紀末ごろ、サッファール朝により駆逐された。カーブルの町はこの200年余りの間繰り返された小競り合いの結果、破壊された:231。 サッファール朝以後、カーブルの支配者はサーマーン朝→ガズナ朝→ゴール朝→ホラズムシャー朝と遷移するがいずれにおいてもカーブルの都市化は進まず、官衙の類が設置されることすらもなかった。中央ユーラシアから豊かなインドへと抜ける道のチョークポイントに近い場所であるため、いざインドへ攻め込む際には各地方の軍勢がここで落ち合った。例えば、アブル・ファドル・バイハキー(英語版)の歴史書(英語版)には、1031年にガズナ朝スルターン・マスウード(アラビア語版)がカーブルで1670頭の戦象部隊を閲兵したという記事がある。しかし、そのようなイベントのない平時はムスリム軍人が少数駐屯していただけの場所であり、カーブル周辺の諸郡や山岳は非イスラーム教徒が自ら治めていた。
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