1685年5月-7月:アルバジン包囲
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「清露国境紛争」の記事における「1685年5月-7月:アルバジン包囲」の解説
1684年には、清軍がアルバジンを襲撃し、司教を含む、相当数のロシア人が北京に連行された。1685年6月10日、康熙帝の命により、清軍は、アルバジンへの攻撃を開始した。 翌日1685年6月11日には、ハルハ・モンゴル部隊がセレンギンスク、ついでウジンスクを包囲した。 ロシア側の記録『シベリア年代記』によると、トルブジン指揮下のコサック736名(または単に守備兵826名という)が善戦した。アルバジンは数日で陥落したが、トルブジンは、プロイセン人将校ベイトンら外人部隊の援軍を得て、アルバジンを奪い返した。また、この際、ロシア人住民の一部が北京に拉致され。 ロシア兵のほとんどはネルチンスクへ敗走したものの、少数は清に寝返り、北京駐屯の八旗の鑲黄旗に編入されてオロス・ニルやアルバジン人(中国語版)(阿爾巴津人)と呼ばれる部隊が発足した。その後、清の撤退後に、アレクセイ・トルブジン指揮下のロシア軍800人が再び訪れ、砦を占領した。ただ彼らの当初の目的は、この地域での稀少品である穀物を栽培することであった。
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