1685年-1686年 休戦交渉とハルハ・モンゴルの動き
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「清露国境紛争」の記事における「1685年-1686年 休戦交渉とハルハ・モンゴルの動き」の解説
1685年、アルバジン攻撃に苦戦し、清はロシアに国書を送った。ロシア政府はアムール河での休戦交渉のために、12月には全権大使フョードル・ゴローヴィンを派遣した。ゴローヴィンはザバイカリエを訪れ、ハルハ・モンゴル人を中立化させようとしたが、当時のハルハ部は清と密接に連携していた。1688年1月、ハルハ・モンゴル軍は清の軍事援助の元、セレンギンスクとウディンスクを挟撃した。ロシア軍が勝利し、ゴローヴィンは無傷であった。
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