高速爆撃機構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/23 08:46 UTC 版)
1936年、ドイツ航空省(RLM)は高速爆撃機(迎撃戦闘機よりも高速な爆撃機)の競作を開始した。当時は双発の爆撃機のほうが単発の戦闘機よりも高速を発揮できると考えられていた。この考えは1936年に開催されたチューリッヒのエアレースでドルニエ Do 17が同時代に設計されたヨーロッパ中の戦闘機よりも高速で飛行していることからも証明されていた。 その年の終わりにドイツ航空省は高速爆撃機として設計されたものの中からユンカース Ju 88を選定したが、その速度と引き換えにJu 88は小型の航空機になっており、爆弾倉には少量の爆弾しか搭載できなかった。Ju 88は追加で機体外部のラックに爆弾を搭載することもできたが、その場合は空気抵抗が大きくなり性能が著しく低下した。出力の低いエンジンで設計された高速爆撃機では十分な爆弾搭載量と燃料を搭載することが不可能だった。その欠点を補うためにハインケル He111やドルニエ Do 17のような速度の遅い機体が運用され続けていた。 Ju 88が運用されていた頃、ドイツの「高性能エンジン」のベンチテストが始まっていた。ダイムラー・ベンツ DB 604(液冷24気筒、直列6気筒 4列)やユンカース Jumo 222(液冷24気筒、直列4気筒 6列)は、2,500hp(1840kW)の出力が計画されていた。Ju 88に搭載されているJumo 211と比較して、これらの新しいエンジンの出力は2基で5,000hp(3680kW)にもなり利用可能な出力は2倍以上にもなった。この大きな出力により、大きな爆弾搭載量とそれを搭載可能な大きな機体内部スペース、より長距離飛行可能な余裕のある燃料搭載量、そしてより高い速度を持ち合わせている機体の設計が可能となる予定であった。
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