高松高雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 13:31 UTC 版)
佐賀県旧小城郡砥川村(現小城市)出身。1937年1月、17歳にて志願兵として戦車第1連隊に入隊。西住の部下で、主に砲手や銃手を務めた。一時期当番兵も務めたこともある。当時は上等兵。体重90kgという戦車兵に不相応な巨漢でありながらも、西住の右腕として常に彼を支え続けた。西住が撃たれた際は真っ先に駆け寄り、その最期を看取った。その後は大陸での戦闘を転々としたのち、ノモンハン事件に参加。太平洋戦争勃発後は戦車第2師団の所属としてフィリピンに転任した。ルソン島アンティポロ南部にて最前線に立ち、戦車はおろか武器や食料もほぼ失った。8月14日、餓死寸前の状態で突撃玉砕を試みるも失敗し、そのまま翌日上官からポツダム宣言受託を知らされ、連合国側に投降した。マニラの捕虜収容所を経て同年十一月復員。帰国後、長崎県佐世保市松瀬町に移住。長寿を保ち、2003年8月16日付の長崎新聞の取材では、小泉政権の自衛隊イラク派遣に対し、批判的な意見を述べている。最終階級は軍曹。
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