高岡漆器
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高岡漆器 |
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たかおかしっき |
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漆器 |
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盆、箱物、室内調度品 |
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高岡漆器は、江戸時代の初めに、加賀藩の藩主前田利長が、現在の富山県高岡市に高岡城を築いたとき、武具や箪笥、膳等日常生活品を作らせたのが始まりです。 その後、中国から堆朱(ついしゅ)、堆黒(ついこく)等の技法が伝えられ、多彩な色漆を使って立体感を出していく彫刻塗、錆絵(さびえ)、螺鈿(らでん)、存星(ぞんせい)等多彩な技術が生み出されました。高岡漆器が、町人文化の中にしっかりと根づき栄えてきたことは、高岡の祭で使われる絢爛豪華な御車山(みくるまやま)にこれら漆器の技が集められていたことからもうかがえます。 |
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富山県 |
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昭和50年9月4日 |
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長い伝統に培われ、伝えられた技の代表的なものとして、うるみ色の地に玉石を貼り、錆絵(さびえ)を描く「勇助塗(ゆうすけぬり)」、多彩な色漆を使って立体感を出していく「彫刻塗」、あわびや夜光貝等、虹のような輝きをもった貝殻を使って、山水や花鳥等を表現する「青貝塗」があります。 |
高岡漆器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/09 13:27 UTC 版)

高岡漆器(たかおかしっき)は、富山県高岡市で生産されている漆器。経済産業大臣指定伝統的工芸品。
歴史
江戸時代初期の慶長年間加賀藩主前田利長が高岡城を築いた際、武具や箪笥[1][2]、膳など日常生活品を作らせたのが始まりと伝えられる。
明和年間に辻屋丹甫というものが中国漆器を模造し[3]、堆朱、存星等の技法で製造し[4]、後に中国から堆朱、堆黒等の技法が伝えられ、多彩な色漆を使って立体感を表現する彫刻塗、錆絵、螺鈿、存星等の多彩な技術が生み出された技法が取り入れられて、作風の幅が広がり高岡地方の伝統的な日用品に多く用いられてきた[1]。これらの技法は、高岡の祭りの御車山(みくるまやま)に集結され、町人文化の中に根付き、発展した[1]。
昭和になると組合を組織し[5]、アメリカ、イギリス、フランス、インド、中国、西太平洋の諸島、エチオピア[6]に輸出された。[7]
1975年(昭和50年)9月4日、経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された[8]。現在、高岡市内では小学校や中学校に職人を招き、児童・生徒が漆器製作を体験する試みがある。
特徴
骨董品として扱われるほどの渋めの製品であったが、螺鈿、錆絵も用いられる。[6]
毎年5月1日に開かれる高岡御車山祭で曳き回される高岡御車山(重要有形民俗文化財に指定)にも、これらの漆塗りの技法が使われている。
高岡漆器関連の資料館も複数ある。高岡地域地場産業センターでは、漆器や高岡銅器の販売が行われる。
高岡漆器の製作会社が結成・加盟する組織としては、伝統工芸高岡漆器協同組合がある。
主な製品

など
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菓子器(高岡市立博物館)
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鯛盆(高岡市立博物館)
高岡地域地場産業センター
高岡市御旅屋町の御旅屋セリオには高岡地域地場産業センターがある。高岡地域の産業を紹介したり、製品の販売を行っている。1983年(昭和58年)設立。
脚注
- ^ a b c 財務省北陸財務局経済調査課 12頁
- ^ 横浜市商工課 3頁
- ^ 富山県立高岡商業学校商業調査研究室編、10頁
- ^ 「商業調査報告. 第2輯(昭和8年度調査) (漆器ニ関シテ)」1934年 10頁参照
- ^ 富山県立高岡商業学校商業調査研究室編、1頁
- ^ a b 富山県立高岡商業学校商業調査研究室編、14頁
- ^ 富山県立高岡商業学校商業調査研究室編、3頁
- ^ 神保成伍『写真で見る昭和の高岡』文苑堂書店、2005年、126頁。
参考文献
- 横浜市商工課 編 「横浜商工彙報. 第21」1925年
- 富山県立高岡商業学校商業調査研究室編『商業調査報告. 第2輯(昭和8年度調査) (漆器ニ関シテ): 著名物産』富山県立高岡商業学校商業調査研究室、1934年。
- 財務省北陸財務局経済調査課著 「北陸財務局統計年報 平成20年版」
外部リンク
- 高岡市観光情報サイト 工芸
- 高岡 漆物語 伝統工芸高岡漆器協同組合
- 高岡地域地場産業センター
高岡漆器と同じ種類の言葉
- 高岡漆器のページへのリンク