小豆坂の戦い (1564年)
(馬頭原合戦 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 10:50 UTC 版)
第三次小豆坂の戦い | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
三河一向一揆(戦国時代)中 | |||||||
|
|||||||
衝突した勢力 | |||||||
一向一揆勢 (浄土真宗門徒) |
松平(徳川)軍 浄土宗僧兵 |
||||||
指揮官 | |||||||
空誓 本多正信 夏目吉信 蜂屋貞次 |
松平元康 酒井忠次 石川数正 本多重次 高力清長 天野康景 大久保忠世 榊原康政 本多忠勝 |
||||||
小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)または馬頭原の戦い(ばとうがはらのたたかい)は、1564年(永禄7年1月3日)に三河国の小豆坂から馬頭原にかけて行われた合戦。松平元康(後の徳川家康)と三河一向一揆勢力との間で戦われた。1542年・1548年の小豆坂の戦いと区別するため第三次小豆坂の戦いとも呼ばれる[1]。
背景
浄土真宗(一向宗)は鎌倉時代から矢作川中下流域を中心に三河で勢力を拡大し、特に蓮如によって建立された岡崎の本宗寺をはじめ、安城の本證寺、岡崎の上宮寺は三河三ヶ寺と呼ばれ、100以上の末寺を擁する大勢力となっていた[2]。
一揆の直接的原因は、酒井正親が本證寺に乱入したこととされるが、根本的には松平氏による経済統制に対する反発があった[3]。1563年、菅沼定顕による上宮寺の米の強奪を契機に、僧侶たちが菅沼の城を攻撃。元康の使者も殺害されるなど、緊張が高まった[2]。
戦闘の経過

1564年、土呂、針崎の一揆勢との間で、小豆坂から馬頭原において戦闘が開始された[4]。元康は浄土宗の大樹寺僧兵の支援を得て、一揆勢と対峙した[5]。元康は自ら前線で指揮を執り、甲冑を銃弾で貫かれながらも奮戦。この勇姿を見た一部の一揆方武将が元康側に寝返り、戦局が決した[6]。
戦後と影響
戦後も一揆の鎮圧は続いたが、家康は1567年には浄土真宗の布教を再許可している[3]。これは単なる宗教弾圧ではなく、領国支配権をめぐる政治的対立だったことを示唆している[7]。
史跡
小豆坂古戦場跡は岡崎市指定史跡として保護されている[8][9]。
歴史的評価
近年の研究では以下の新解釈が提唱されている。
関連項目
脚注
- ^ “小豆坂学区”. 岡崎市. 2024年7月18日閲覧。
- ^ a b 小和田泰経. “安城と徳川家康と三河一向一揆”. 歴史人. ABC・アーク. 2024年7月18日閲覧。
- ^ a b c 渡邊大門. “家康は宗教弾圧の一環として、三河一向一揆と戦ったのか”. Yahoo!ニュース. 2024年7月18日閲覧。
- ^ “小豆坂古戦場”. 岡崎市立小豆坂小学校. 2024年7月18日閲覧。
- ^ タンブル, スティーヴン (1996). サムライ・ウォーフェア. カッセル社. p. 216
- ^ タンブル, スティーヴン (1998). サムライ・ソースブック. カッセル社. p. 216
- ^ a b 濱田浩一郎. “三河一向一揆の鎮圧後、徳川家康はなぜ離反した家臣に寛大だったのか?”. 歴史人. ABC・アーク. 2024年7月18日閲覧。
- ^ “小豆坂古戦場”. 岡崎市観光サイト. 2024年7月18日閲覧。
- ^ “小豆坂古戦場跡”. 岡崎市. 2024年7月18日閲覧。
- 小豆坂の戦い (1564年)のページへのリンク