須成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/27 11:47 UTC 版)
地理
蟹江川の下流域にある[4]。蟹江町には海抜ゼロメートル地帯が広がっており、須成の北端部の標高はマイナス0.66メートルである[5]。
河川・池沼
交通
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蟹江川
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蟹江川に架かる御葭橋
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蟹江インターチェンジ
歴史
地名の由来
『尾張国地名考』には地名の由来として「正字沙成(すななり)なるべし」とある[4]。当地は木曽川下流のデルタ地帯であり、開発時には砂や泥の多い土地であったために「砂成」(すななり)と呼ばれ、「須成」の表記となったという[4]。
近世
常楽寺は七堂伽藍を有する大寺院だったが、天正12年(1584年)に羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた蟹江城合戦の際に兵火に遭い、龍照院などわずかな建物が残るのみとなった[4]。江戸時代には尾張国海東郡に須成村があり、尾張藩領で佐屋代官所の支配を受けていた[4]。江戸時代には蟹江川による漁獲の多い集落だった[4]。
寛文年間(1661年~1673年)に編纂された『寛文郷帳』による村高は1373石余であり、同時期に尾張藩によって編纂された『寛文村々覚書』には家数158・人数776とある[4]。寛政年間(1789年~1801年)以後に尾張藩士の樋口好古によって編纂された『尾張徇行記』には戸数240・人数1044とある[4]。天保年間(1831年~1845年)に編纂された『天保郷帳』による村高は1373石余[4]。
近代
明治時代初期に編纂された『旧高旧領』による村高は2141石余[4]。1889年(明治22年)、町村制の施行によって海東郡須成村が発足した[4]。1891年(明治24年)の戸数は351、人口は1451だったが、同年10月28日に発生した濃尾地震では住家139が全壊、住家62が半壊、死者2という大きな被害を受けた[8]。1906年(明治39年)、須成村など3村が合併して蟹江町が発足し、大字須成が設置された[4]。
現代
太平洋戦争以前には農業中心の集落だったが、戦後には第二次産業への転換が進んだ[4]。戦前の1938年(昭和13年)には近鉄名古屋線が開業していたが、戦後には須成の東部に住宅団地などが造成され、名古屋市のベッドタウン化が進んだ[4]。1969年(昭和44年)の世帯数は1157、人口は4513[4]。
1980年(昭和55年)、須成の一部が須成西・今西上となった[4]。
施設

- 蟹江町観光交流センター祭人 - 須成祭に関する展示などがある観光案内所。2018年(平成30年)5月26日オープン[9]。
- 蟹江須成郵便局
- 須成公民館
- 須成保育所
- 山田酒造 - 日本酒メーカー。1871年(明治4年)創業[10]。蟹江川沿いでは稲作や酒造りが盛んであり、今日の蟹江町では山田酒造と甘強酒造の2軒が営業中である[11]。銘柄は吟醸酒の「醉泉」や特別純米酒の「最愛」などであり、BABYMETALメンバーの菊地最愛との関連でファンの訪問が増えている[12]。
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蟹江町観光交流センター祭人
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山田酒造の特別純米酒「最愛」
祭礼

8月第1土曜・日曜、冨吉建速神社・八剱社の祭礼として、「車楽船行事」と「神葭流し」から成る須成祭が開催される。2012年(平成24年)には須成祭が重要無形民俗文化財に指定され、2016年(平成28年)には「山・鉾・屋台行事」の一部としてユネスコの無形文化遺産に登録された[11]。
「車楽船行事」では8月第1土曜に宵祭、第1日曜に朝祭が行われ、宵祭では提灯をともした巻藁舟が、朝祭では神の人形を乗せた車楽船が蟹江川を上る[11]。蟹江川に架かる跳開橋である御葭橋(みよしばし)は、車楽船が通る2日間のみ跳ね上げられる。「神葭流し」では蟹江川の河岸に茂るヨシを刈り、神体として冨吉建速神社に祀った後、災厄をヨシに託して蟹江川に流す[11]。ヨシを燃やすことで神葭流しは終了する[11]。
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須成祭の朝祭
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蟹江町観光交流センター祭人における須成祭の展示
名所・旧跡

- 冨吉建速神社・八剱社 - 旧社格は郷社。二社を総称して須成神社と呼ぶ場合もある[11]。天平5年(733年)に行基によって創建され、寿永元年(1182年)に源義仲によって再興されたと伝わる[11]。天文17年(1548年)には織田信長が社殿を修復したと伝わる[13]。冨吉建速神社本殿、八劔社本殿が重要文化財[14][15]。
- 御嶽神社
- 龍照院 - 真言宗智山派の寺院[11][16]。冨吉建速神社・八剱社と同様に天平5年(733年)に行基によって創建され、寿永元年(1182年)に源義仲によって再興されたと伝わる[11][16]。尾張三十三観音霊場13番札所[16]。木造十一面観音立像が重要文化財[14][16]。大日如来坐像、鰐口が蟹江町指定文化財[14][16]。須成龍照院のイチョウが蟹江町天然記念物[14][16]。
- 善敬寺 - 真宗大谷派の寺院。かつては本證寺の末寺だった。
- 松秀寺 - 曹洞宗の寺院。蟹江町では唯一の禅宗の寺である。2003年(平成15年)に須成西7丁目に移転するまでは須成字市場にあった。
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龍照院
出身者
- 佐野七五三之助 - 新撰組隊士。須成村の神職の子として生まれた。新撰組内部の思想の違いから御陵衛士への合流を計り、慶応3年(1867年)に切腹した[11]。
- 神田鐳蔵 - 実業家。須成村市場で紅葉屋という屋号の酒蔵の子として生まれた[11]。証券業で巨額の利益を得て神田銀行を設立した[11]。
- 加藤高明 - 外交官・政治家。内閣総理大臣。3歳頃から11歳頃まで母の故郷である須成村で育ち、蟹江川で泳いで魚を捕まえるなどして遊んだ[11]。
脚注
- ^ “読み仮名データの促音・拗音を小書きで表記するもの(zip形式) 愛知県” (zip). 日本郵便 (2024年2月29日). 2024年3月26日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧” (PDF). 総務省 (2022年3月1日). 2022年3月22日閲覧。
- ^ “ナンバープレートについて”. 一般社団法人愛知県自動車会議所. 2024年1月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年、p.733
- ^ 蟹江町史編さん委員会『蟹江町史 本編』蟹江町、1973年、p.3
- ^ 二級河川日光川水系 河川整備計画 愛知県
- ^ 『写真アルバム 海部・津島の昭和』樹林舎、2021年
- ^ 飯田汲事『明治24年(1891年)10月28日濃尾地震の震害と震度分布』愛知県防災会議地震部会、1979年、p.112
- ^ 「新・蟹江土産 16種類販売 観光交流センター『祭人』開館」『中日新聞』2018年5月29日。2022年2月22日閲覧。
- ^ 明治四年創業、一四七年の長い歴史 山田酒造
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「須成地区」の歴史・文化 蟹江町
- ^ 「蟹江の酒蔵にベビーメタル特需『最愛』に注文殺到」『中日新聞』2016年5月23日。2016年5月21日閲覧。
- ^ 蟹江町史編さん委員会『蟹江町史』蟹江町、1973年、pp.873-878
- ^ a b c d 蟹江町の指定等文化財 蟹江町
- ^ 愛知県社会科教育研究会尾張部会『尾張の文化財とくらし』愛知県社会科教育研究会尾張部会、1988年、p.91
- ^ a b c d e f “龍照院”. 蟹江町. 2025年8月26日閲覧。
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年3月8日。ISBN 4-04-001230-5。
- 蟹江町史編さん委員会『蟹江町史』蟹江町、1973年
- 須成文化財保護部『須成の歴史と文化』須成文化財保護委員会、1994年
- >> 「須成」を含む用語の索引
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