阿波公方の出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 04:40 UTC 版)
『平島殿先祖並細川家三好家覚書』によると、足利義冬を阿波に受け入れたのは細川持隆であり、勝瑞事件以降、足利義冬と三好実休の関係は悪化し、義冬は弘治元年(1555年)の春、阿波を出て周防国の大内氏の下に身を寄せた。 そもそも、細川持隆の正妻と足利義冬の正妻は姉妹であり、2人の父・大内義興はかつて上洛して足利義稙を将軍に戻した実績を持つ。しかし、大内義興の子・大内義隆が天文20年(1551年)の大寧寺の変で死亡たことで、既に大内氏は事実上滅亡しており、この時の大内氏の名目上の当主・大内義長は大友義鎮の弟で足利義晴・義輝父子から偏諱を受けた人物である。さらに、2年後の弘治3年(1557年)の春、毛利元就の侵攻(防長経略)により大内義長が自害し、大内氏は名実ともに滅亡した。
※この「阿波公方の出奔」の解説は、「鑓場の戦い」の解説の一部です。
「阿波公方の出奔」を含む「鑓場の戦い」の記事については、「鑓場の戦い」の概要を参照ください。
- 阿波公方の出奔のページへのリンク