勝瑞事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 04:40 UTC 版)
詳細は「細川持隆」を参照 阿波細川家の当主(阿波屋形、阿波・讃岐守護)で勝瑞城を居城としていた細川持隆は、同城で実権を握る三好実休と確執が深まり、死に追いやられた。 『三好記』によると、細川持隆は相撲見物に招いた席で三好実休を殺そうとしたが、相談相手の奉行、四宮与吉兵衛が実休に密告したため計画が露見した。実休が3,000の兵を集める一方、持隆の手勢は馬廻100余りにすぎず、持隆は見性寺で援軍を募るが、呼応する勢力はなく、天文21年8月19日(1552年9月7日)に持隆は自害、持隆の家臣だった星相右衛門と蓮池淸助が死亡した。 この結果、持隆の子である細川真之が阿波屋形となった。
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