阿波国の気楽流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:50 UTC 版)
阿波国の気楽流は、喜楽流と書かれることが多い。徳島藩主蜂須賀家の武芸指南番を務めたことがある井田圓重郎(伊田とも)が阿波国板野郡各地で喜楽流の教授を行っていた。徳島城内で行われた武術大会で天神真楊流の長島直吉(天神真楊流開祖磯又右衛門の門人)と試合した際、一見木刀同様に作られた鞘木刀で契木を封じられ隙を突かれ敗北したことにより井田は浪人となった。後に井田は板野郡松茂村豊久の豪農である郡六左衛門の宅に落ち着き、地方の有志を集めて柔術指南を行った。井田は喜楽流を熱心に指導し、板野郡大津村矢倉の福井角太郎、藤田治門太、佐竹伊左太、坂田林十郎、田村伊助などが奥儀を修めた。その後、井田は板野郡松茂村から去り板野郡西条で喜楽流を指南した。この時の弟子に浅野又兵衛がおり、この系統は昭和頃まで伝わっていた。
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