開発ツールと法廷闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 05:01 UTC 版)
1995年、ソフトウェア開発ツールで巻き返しを図るボーランドは、Windows時代に対応したRADツール Delphiを発売。アンダース・ヘルスバーグ(Anders Hejlsberg)による洗練された設計は、マイクロソフト製ツールを圧倒した。これに対してマイクロソフトは、開発部門のトップであったポール・グロス(Paul Gross)上級副社長を筆頭に、アンダース・ヘルスバーグなど主要なボーランドの技術者を30ヶ月間に34人引き抜き対抗。「Dead Borlanders Society」と皮肉られる有様だった。怒ったボーランドはマイクロソフトを訴え、長期にわたる法廷闘争が繰り広げられた。 なお、この引き抜き劇の真相について、アンダース・ヘルスバーグは日経ソフトウエア2002年7月号のインタビューで、直接的な原因は1994年にフィリップ・カーンが追放されたのを皮切りに、ボーランド社が開発ツール部門の廃止および大量リストラを計画したことが発端であり、リストラ対象となった開発者たちの生活を守るため、賛同者を引き連れてマイクロソフトに移籍したものであると語っている。
※この「開発ツールと法廷闘争」の解説は、「ボーランド」の解説の一部です。
「開発ツールと法廷闘争」を含む「ボーランド」の記事については、「ボーランド」の概要を参照ください。
- 開発ツールと法廷闘争のページへのリンク