鎌倉時代・南北朝時代の化粧坂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 05:07 UTC 版)
「化粧坂」の記事における「鎌倉時代・南北朝時代の化粧坂」の解説
史料上では鎌倉時代の『吾妻鏡』建長3年(1251年)12月3日の条で、「鎌倉中小町屋の事定め置かるる処々」の中に「気和飛坂山上」と出てくるのが初見である。ただし『吾妻鏡』には複数の写本があり、北条本には「乗和飛坂」とある。このことから吉田東伍の『大日本地名辞書』では「乗和」をアマノワと読み甘縄の魚町との説も出しているが、あまり賛同は得られていない。 その他は元弘3年(1333年)の北条氏滅亡の時であり、『太平記』には「粧坂」とある。『梅松論』には化粧坂の名は出ないが化粧坂山上の北側の「葛原」が戦場として登場し、新田義貞はここを突破できず、稲村ヶ崎から鎌倉中に攻め入った。 以上から「葛原ヶ岡」のすぐ傍の「化粧坂」が当て字で「気和飛坂」となることによって、『吾妻鏡』・建長3年(1251年)12月3日の条にある「気和飛坂」が現在の「化粧坂」となる。 鎌倉の世界遺産登録に向けて行なわれた2000年(平成12年)度、2001年(平成13年)度の調査では、名越坂とともに、化粧坂で荼毘の跡が発見された。
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