金沢勘右衛門(かなざわかんえもん ?-1691)
江戸時代前期の測量家。
洋式測量術の始まりは、寛永20年(1643)、南部藩に漂着し、慶安2年(1649)長崎に送られたカスパルが、天文家樋口謙貞(またの名を権右衛門といい、長崎奉行所与力ともいわれる 1601-1683)に測量術を伝授したことからだといわれる。
この洋式測量術は、樋口から当時島原城主高力高房の家臣であった金沢刑部左衛門(勘右衛門の父)へ、そして金沢清左衛門(同兄)へ、さらに金沢勘右衛門へも伝えられたという。同時に清水貞徳(1645-1717)にも伝えられ、これは清水流測量術として大きな流れとなった。
金沢勘右衛門は、天和 2年(1682)津軽藩主津軽信政に、弟子の清水貞徳とともに迎えられ藩士らに測量術を教え、貞享 3年(1686)領内の絵図を作成した。元禄 3年(1690)にも、藩地に赴き同 4年に黒石領の絵図(「従三角山御茶屋場山崎迄峰筋見分の図」ほか、弘前図書館蔵)を作成した。
この間、藩内の内紛、凶作による倹約の励行などにより下級藩士には離反するものが多かったという。江戸時代の測量家も地位が低かったようで、清水は経済的な理由から元禄元年に離藩した。金沢もまた生活苦のため離藩を申し出たが、金十両を与えられて引き留められたという。その後も生活苦は改善されず、それが藩主の耳に入っては報償を与えられ、引き留められながら絵図作成を続けたという。
清水流規矩距術印可(部分)
洋式測量術の始まりは、寛永20年(1643)、南部藩に漂着し、慶安2年(1649)長崎に送られたカスパルが、天文家樋口謙貞(またの名を権右衛門といい、長崎奉行所与力ともいわれる 1601-1683)に測量術を伝授したことからだといわれる。
この洋式測量術は、樋口から当時島原城主高力高房の家臣であった金沢刑部左衛門(勘右衛門の父)へ、そして金沢清左衛門(同兄)へ、さらに金沢勘右衛門へも伝えられたという。同時に清水貞徳(1645-1717)にも伝えられ、これは清水流測量術として大きな流れとなった。
金沢勘右衛門は、天和 2年(1682)津軽藩主津軽信政に、弟子の清水貞徳とともに迎えられ藩士らに測量術を教え、貞享 3年(1686)領内の絵図を作成した。元禄 3年(1690)にも、藩地に赴き同 4年に黒石領の絵図(「従三角山御茶屋場山崎迄峰筋見分の図」ほか、弘前図書館蔵)を作成した。
この間、藩内の内紛、凶作による倹約の励行などにより下級藩士には離反するものが多かったという。江戸時代の測量家も地位が低かったようで、清水は経済的な理由から元禄元年に離藩した。金沢もまた生活苦のため離藩を申し出たが、金十両を与えられて引き留められたという。その後も生活苦は改善されず、それが藩主の耳に入っては報償を与えられ、引き留められながら絵図作成を続けたという。
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