選挙での圧勝・クーデター未発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 00:27 UTC 版)
「ブーランジェ将軍事件」の記事における「選挙での圧勝・クーデター未発」の解説
1888年4月には二つの県で、8月には三つの県で補欠選挙に立候補し、そのいずれにも当選を果たした。これは選挙法の不備につけこんだ行為であったが、少なくとも違法ではなかったため政府はなすすべがなかった。ブーランジェは「議会解散、立憲議会、憲法改正」の三つのスローガンを掲げ、1889年1月27日にセーヌ県で行われた選挙に出馬、共和各派統一戦線の候補者に八万票の大差で圧勝した際には5万の群集が集まり、彼にクーデターの実行を指嗾するまでになった。 ブーランジェ派の指導者たちは、当選決定の1月22日夜にブーランジェをエリゼ宮殿まで行進させ、示威行動とともに独裁権を奪取する計画を練っていた。が、肝心のブーランジェ本人が実行をためらったため計画は瓦解し、大衆の支持は急速に失われた。これによりフランス共和制は危機を脱した。その後、ブーランジェに逮捕状が発せられ、関係する組織は起訴されることとなった。身の危険を感じたブーランジェはベルギーに亡命し、彼を支持した勢力は急激に衰えていくことになる。
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