遠江国波津代官
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文政6年(1823年)2月一橋徳川家用人河原隼人の推挙により同家領遠江国波津陣屋代官に任じられた。赴任直後は医者としての評判から病人や医者等の対応に追われた。 7月7日田沼意正が旧領相良藩に復帰し、一橋領内30ヶ村が相良藩に移管されたため、12月28日当該30ヶ村分の2,000両を村民に還付し、更に公平性を図るため、残りの村に対しても半額3,000両を還付した。役人の不正を防ぐため、検見法から定免法に変更し、年貢米の品質改良に務め、また金谷原の牛馬市設置を江戸に提案した。代官所では終業時間を未の刻から午の刻に早め、午後は役人に勉強をさせた。 𪽶を患い食事が喉を通らなくなり、文政9年(1826年)1月1日下吉田村沖に中国船得泰号が漂着した際には中泉代官竹垣直清を代理に立てて対応した。1月19日辰の刻死去し、平田寺境内到遠峰に葬られた。墓地は後に善能寺境内となり、現在牧之原市文化財に指定されている。
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