連絡会の成立
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「全国保険医団体連合会」の記事における「連絡会の成立」の解説
日本医師会(以下、日医)の会長に武見太郎が就任すると、彼の方針に反発する開業医たちが保険医協会に結集し始めた。1961年1月、日医は「医療危機突破闘争総本部」を設置し、保険医総辞退の構えを持って自民党首脳に対し診療報酬の引き上げを迫った。 日医会長武見及び日歯会長河村と自民党政調会長田中角栄、厚生大臣(当時)灘尾弘吉との間に妥協が成立し、僅かな引き上げに終わった。これに不満を持った開業医がさまざまな「保険医団体」を結成し、また保険医協会に加入した。これらの諸所の「保険医団体」「保険医協会」「保険医会」の横の連絡を持つための組織として、同年10月に「関西保険医団体連絡会」が結成され、これが1962年の「全国保険医団体連絡会」(保団連、以下 連絡会)へと発展した。
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