近現代の恵林寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 08:44 UTC 版)
明治4年(1871年)の信玄公三百回忌に際しては、山梨郡中萩原村(甲州市塩山中萩原)出身の幕臣・真下晩菘(ました ばんすう)が松本楓湖(まつもとふうこ)筆の「武田二十四将図」を奉納している。 明治5年(1872年)には、明治政府による地租改正に際して、江戸時代以来の甲州三法のひとつである大小切税法を廃止する案が浮上し、これに対して甲府盆地の旧田安家領の村々を中心に反対運動が発生した(大小切騒動)。 山梨県令の土肥謙蔵は当初一揆勢に対する融和路線を取っていたが、後に陸軍から派遣された兵が到着すると一転して果断な処置を行い、この時に土肥は一揆勢の村役人を恵林寺に集結させ、一度与えた黒印状を没収した。騒動はこれにより収束するが、土肥は免官により辞職し、藤村紫朗が新県令として後任として着任すると、藤村県政を展開した。 1905年(明治38年)には火災に見舞われて壮大な堂宇の大半を焼失。その後再建され現在に至る。
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