軋轢の中の進行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 20:24 UTC 版)
本因坊戦自体は毎日新聞と日本棋院の契約によって成立していることから、日本棋院から離脱した関西棋院の棋士には参加資格もないことになり、橋本から本因坊を剥奪すべきという意見も出た。しかし毎日新聞としては「全日本棋士選手権戦」を建前とする以上は全棋士参加であることが望ましく、また日本棋院としては本因坊位は実力で奪還すべしということが総意となり、予選はそのまま進められた。また橋本はこの間にも呉清源との十番碁、及び本因坊対呉三番碁の対局も進めていた。 1950年12月に、リーグ戦を勝ち抜いた坂田栄男が挑戦者に決定した。ここで橋本から、自分が本因坊位を失っても次期から関西棋院の高段者が参加できるようにならなければ挑戦手合に応じない、という条件が出され、これが間組社長神部満之助らによる調停の末に1951年3月になって受け入れられて、挑戦手合七盤勝負は1月予定だったところ4月になって開始された。
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