趙浮
初平元年(一九〇)正月、関東で反董卓の義兵が起こると、冀州牧韓馥もこれに呼応した。韓馥は都督従事趙浮・程奐の二人に強弩兵一万人・軍船数百艘を授けて孟津に進出させ、黄河を挟んで董卓軍と対峙させた《袁紹伝》。 翌年七月、勃海太守袁紹は黄河を下って延津に軍勢を引き返す一方、高幹・荀諶らを派遣して韓馥に冀州牧の地位を譲るよう脅迫した。韓馥は臆病な性質であったため恐怖を抱き、彼の言いなりになろうとした。趙浮らはこれを聞くと孟津を引き上げ、夜中、朝歌県清水口の袁紹軍の側を軍鼓を打ち鳴らしながら通過した。袁紹はそれを非常に憎んだ。こうして趙浮らは韓馥のもとに到着した《袁紹伝》。 趙浮らは韓馥を説得して言った。「袁本初には一升の兵糧すらなく、各自が離散してしまい、張楊・於夫羅が新しく味方になったとはいえ、まだ使い物にはなっておらず(我が軍の)敵ではありません。従事らは自ら兵を統率して奴らを防ぎたいと思います。十日のあいだには必ずや土崩瓦解させてみせましょう。明将軍はただ門を開き枕を高くしておられればよろしい。何も恐れ憂うことはありませんぞ」。韓馥は聞き入れず州牧の地位を退いた《袁紹伝》。 【参照】袁紹 / 於夫羅 / 韓馥 / 高幹 / 荀諶 / 張楊 / 程奐 / 董卓 / 延津 / 関東 / 冀州 / 黄河 / 清水口 / 朝歌県 / 勃海郡 / 孟津 / 太守 / 都督従事 / 牧 / 強弩 |
趙浮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 07:55 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動趙 浮(ちょう ふ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。
事跡
姓名 | 趙浮 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 冀州都督従事 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 韓馥 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
韓馥配下の都督従事。韓馥の命令により、同僚の程奐と共に、数百艘の船と石弓隊一万を擁して、河陽の孟津に駐屯していた。
初平2年(191年)、韓馥が袁紹に冀州を譲ろうとしていると聞いたため、趙浮と程奐は急遽韓馥の下へ引き返した。その途中、朝歌県の清水口に袁紹とその軍が駐屯していたため、趙浮と程奐は夜間に軍鼓を打ち鳴らしながらその側を通過し、袁紹軍を威嚇した。趙浮らは韓馥の下に戻ると、袁紹と戦うことを願い出たという。しかし結局韓馥はこれを聞き入れず、袁紹に冀州を譲渡してしまった。
その後は史書に記述が見当たらない。また、小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
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