程奐
初平元年(一九〇)正月、冀州牧韓馥は董卓討伐の義兵を起こし、都督従事趙浮・程奐に強弩兵一万人・軍船数百艘を授け、孟津で黄河対岸の董卓と対峙させた。しかし翌年七月に勃海太守袁紹の軍勢が黄河を下って延津に転進し、それに恐怖した韓馥が冀州牧の地位を彼に譲ろうとしていると聞いて、程奐らは軍勢を引き上げ、夜間、朝歌県清水口の袁紹陣営の側を軍鼓を鳴らしながら通過、韓馥のもとに帰還した。程奐は趙浮とともに「軍勢を率いて袁紹を防ぎたく存じます」と言上したが、韓馥は聞き入れず州牧の地位を退いた《袁紹伝》。 【参照】袁紹 / 韓馥 / 趙浮 / 董卓 / 延津 / 冀州 / 黄河 / 清水口 / 朝歌県 / 勃海郡 / 孟津 / 太守 / 都督従事 / 牧 / 強弩 |
程奐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 19:20 UTC 版)
程 奐(てい かん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。
事跡
姓名 | 程奐 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 冀州都督従事 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 韓馥 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
韓馥配下の都督従事。韓馥の命令により、同僚の趙浮と共に数百艘の船と石弓隊一万を擁し、河陽の孟津に駐屯していた。
初平2年(191年)、韓馥が袁紹に冀州を譲ると聞くと、程奐と趙浮は急遽韓馥の下へ引き返した。その途中、朝歌の清水口に袁紹軍が駐屯していたため、程奐らは夜間に軍鼓を打ち鳴らしながらその側を通過し、袁紹を威嚇した。彼らは韓馥の下に戻ると、袁紹と戦うことを願い出たが、結局韓馥はこれを聞き入れず、袁紹に冀州を譲渡した。
その後、程奐の記述は見当たらない。また、小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
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