豊臣秀勝
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豊臣 秀勝(とよとみ ひでかつ / とよとみ の ひでかつ) / 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の次男で、秀次の弟、秀保[注釈 2]の兄。
注釈
- ^ 叙任時期は明らかではない。於次秀勝との混同という説もあるが、天正16年から17年の間に少将には叙任されたことはほぼ確実。
- ^ 豊臣秀長の養子。諱を「秀俊」とする史料もあるが、秀吉の養子として羽柴秀俊を名乗った小早川秀秋との混同と思われる。
- ^ a b 織田信長の四男、秀吉の養嗣子。小吉秀勝より1歳年長と推定されている。
- ^ ただし『寛政重修諸家譜』では亀山城主は天正13年7月より前田玄以とされている。
- ^ 個人蔵・大阪歴史博物館寄託。
- ^ 片山正彦(京都光華女子大学真宗文化研究所学外研究員)は9月の段階で於次秀勝の病が重く、彼の死去を隠す、あるいはそれが公になることを少しでも遅らせる意図があったのではないかとし、その背景に於次秀勝に養女を嫁がせたばかりの毛利輝元への配慮があったのではないかと考えて、それで於次秀勝の存命中に小吉秀勝を名乗らせたのではないかと推測している[10]。
- ^ 江(ごう)は天正2年に信長の意向もしくは天正11年に秀吉の意向で織田信雄家臣佐治一成に嫁いだとされるが、天正12年(1584年)に一成は没落しており、離縁もしくは破談となっている。なお、江と佐治一成の婚姻は婚約のみで、秀勝との婚姻は実質的に初婚であったという説もある[13]。
- ^ なお、同日条には吉田兼見が御次(於次秀勝)の見舞いをしたことに関する記述もある[16]。
- ^ 九州の役の陣立書をみると、秀吉は一門衆から多くの人員を出しており、秀勝の5,000という数字も新領地からの動員に苦労したはずで、秀勝の不平は単にわがままをいったというわけではないようである。百石七人制のため当時の10万石の所領からは7,000が軍役で動員され、出征兵のほか陣夫として2,000が徴用された計算になる。
- ^ 躑躅ヶ崎館(甲府市武田)は戦国大名武田氏の居館で、武田氏滅亡後は織田氏・徳川氏によって引き続き支配拠点として利用されていた。徳川氏時代には城下南方の一条小山に総石垣の新城が築城され(甲府城)、秀勝期にも甲府桶大工勝村氏に「当城用所」を命じた文書が残されている[38]。この文書から秀勝期にも築城が開始されていた可能性が考えられているが[39]、この「当城」は武田氏館を指すとする説もある(なお、甲府城の普請は加藤氏、浅野氏により継続され慶長年間には完成をみたと考えられている)[40]。
- ^ 文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたが、慣例により1592年に文禄を用いる。
- ^ この頃、秀吉は甥の秀次に対して、三国分割計画を示しているが、これによると高麗には秀勝か宇喜多秀家を配すると知らせており、つまり秀勝は朝鮮統治予定者の最有力候補に挙げられており、秀吉の天下統治構想に秀勝が、血族としてとりわけ重要な役割を担っていたことが知られる[43]。
出典
- ^ a b 渡辺 1919, p. 77
- ^ a b c 桑田 1971, p. 37.
- ^ 渡辺 1919, p.73
- ^ a b 宮本 2010, p. 141-147
- ^ a b 渡辺 1919, p. 75.
- ^ a b 渡辺 1919, p.72
- ^ 桑田 1981, p. 278, 渡辺良次郎「豊臣秀吉家族事典」.
- ^ 福田 2010, p. 74.
- ^ a b 福田 2010, p. 75.
- ^ 片山 2017, p. 162-165.
- ^ 大日本史料11編20冊36頁.
- ^ 大日本史料11編20冊320頁.
- ^ 福田 2010, pp. 72, 74.
- ^ 小和田哲男『戦国三姉妹物語』角川書店、1997年。ISBN 4047032867。
- ^ 滝田英二『国立国会図書館デジタルコレクション 常滑史話索隠』1965年、77頁 。
- ^ 片山 2017, p. 164-165.
- ^ 小和田哲男 著、杉山博; 渡辺武; 二木謙一 編『豊臣秀吉事典』新人物往来社、2007年、307頁。ISBN 9784404034687。
- ^ a b c 渡辺 1919, p. 73.
- ^ 杉山ほか 2007, p. 307.
- ^ 徳富 1920, p. 289-290.
- ^ 福田 2010, pp. 83–84.
- ^ 福田 2010, p. 84.
- ^ 徳富 1920, p. 469.
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒澤史学』49号、1996年。
- ^ 徳富 1920, p. 489.
- ^ 『国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従 第47-48冊(巻40-41)』 。NDLJP:000003281940
- ^ 徳富 1920, pp. 32–33.
- ^ a b c 桑田 1971, p. 38.
- ^ 渡辺 1919, p. 74.
- ^ 史料綜覧11編912冊251頁.
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- ^ 杉山ほか 2007, p. 309.
- ^ 徳富 1920, p. 132.
- ^ 徳富 1920, pp. 132–134.
- ^ 徳富 1920, pp. 142–143.
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- ^ 史料綜覧11編912冊317頁.
- ^ 『山梨県史』 資料編8 近世1 領主、1997年。
- ^ 平山優「甲府城の史的位置-甲斐国織豊期研究序説-」『山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 10周年記念論文集』1993年。
- ^ 数野雅彦 著「甲府城築城関係史料の再検討」、羽中田壯雄先生喜寿記念論文集刊行会 編『甲斐の美術・建造物・城郭』岩田書店、2002年。
- ^ 史料綜覧11編912冊317頁.
- ^ 天正18年9月付羽柴秀勝黒印状(山梨県立博物館寄託「右左口口遊文書及び関連資料一括」)
- ^ 宮本 2010, p. 137-138.
- ^ 史料綜覧11編912冊353頁.
- ^ 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 丁篇 朝鮮役 上巻』 第7、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、432頁 。
- ^ 福田 2010, p. 86.
- ^ 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣氏時代 戊篇 朝鮮役 中巻』 第8、民友社〈近世日本国民史〉、1935年、95-97頁 。
- ^ 福田 2010, pp. 86–87.
- ^ 渡辺 1919, pp. 76–77.
- ^ 福田 2010, p. 87.
- ^ 大日本史料12編2冊288頁.
- ^ 福田 2010, pp. 107, 114.
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