謀略の果ての死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:48 UTC 版)
1921年(民国10年)1月、徐樹錚は段祺瑞の代表として広西省で孫文と会談する。さらに張作霖とも連絡をとりあい、孫・段・張による反直隷派同盟を結成した。その後、福建省や浙江省などで、安徽派の地盤・軍隊の養成を図ったが、こちらは捗捗しい成果は残せなかった。 1924年(民国13年)9月の第2次奉直戦争後に、段祺瑞は張作霖と馮玉祥により臨時執政として擁立された。徐は1925年(民国14年)1月から12月まで、世界各国を外遊して回っている。12月11日、帰国すると、広東の中国国民党に対抗しようと、安徽派・直隷派・奉天派による連合の結成を目論んだ。しかし馮は、この時すでに国民党への傾斜を強めており、さらに、馮の親族にあたる陸建章を暗殺した徐への恨みを募らせていた。 12月30日、馮玉祥の部下は上海にいた徐樹錚を襲撃し、これを銃殺した。享年46(満45歳)。 子に、法学者の徐道鄰がいる。
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