論文「清国河南省湯陰県発見の亀甲獣骨について」
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林が東京高等師範学校の教授となった翌年の1909年(明治42年)、甲骨の実物がはじめて日本へ伝来した。東京の文求堂書店が甲骨100余片を入手し、林や内藤湖南などの学者に分売したのである。待望の資料を手にした林は、「余はその実物を一見して、決してその偽物にあらざることを信ぜり。」 との感想を述べ、同年、確信をもって、「清国河南省湯陰県発見の亀甲獣骨について」と題する論文を発表した。この論文は史学雑誌第20巻8・9・10号に掲載されたもので、日本における最初の甲骨文字研究であった。林はこの中で、「亀甲獣骨は殷代王室に属せりし卜人の掌りし遺物なるべし。」 と論証している。甲骨文字が殷王室関係のもので民衆には無縁のものであることはその後の研究によって確かめられたことであり、当時の劉鶚(『鉄雲蔵亀』の編者)や孫詒譲でさえもまだはっきりした見解をもっておらず、優れた論文であったといえる。
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