調査・調停事務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:48 UTC 版)
幕府の法令・政策は基本的に前例主義であるため、事業計画がなされる度に前例の調査が行われた。町方においては、町奉行所に計画の願書が出されると、町年寄を通じて前例の調査と町々で支障があるかどうかの調査をするという手順が踏まれた。それ以外にも、江戸の町の一般的な状況に関する調査を町年寄が命じられることもあった。 また、町奉行所に提訴された民事関係の訴訟を任されて内済(示談)で解決するようにと申渡されることもあった。元々、民事の訴訟は町役人達によって調停されるものだったのが、次第に町奉行所へ訴訟が持ち込まれるようになった。特に金銀の出入り(金公事)に関する訴訟が倍増し、奉行所の機能を停滞させるまでになった。そのため、処理しきれなくなった奉行所から町年寄へと訴えを下げ渡される形になったのである。 享保6年(1721年)5月、喜多村役所へ年番名主が呼ばれ、町年寄3人列席のもとで訴訟などについて申し渡された。町奉行から訴訟の呼出状の雛形が示され、訴訟に際しての家主・名主・五人組の出頭形式が決められ、願書の処理についても形式が定められた。文面にも、訴訟は双方で話しあい内済とすることが記され、話し合いで埒が明かない時に町奉行所で裁許すると規定された。
※この「調査・調停事務」の解説は、「町年寄」の解説の一部です。
「調査・調停事務」を含む「町年寄」の記事については、「町年寄」の概要を参照ください。
- 調査・調停事務のページへのリンク