親衛隊オプリーチニキ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:41 UTC 版)
「オプリーチニキ」の記事における「親衛隊オプリーチニキ」の解説
オプリーチニナ貴族会議は、各地方の士族をモスクワに召集し、家柄の低い士族を選んでオプリーチニキに編入した。 ロシアの歴史家ルスラン・スクルィンニコフ(1931年-)によれば、彼らは「貧しく粗野な田夫(でんぶ)」、「醜悪な下僕」などと呼ばれたという。イヴァン4世自身が、オプリーチニクのヴァシリー・グロズノイについて、次のように書いている。 ……わが罪のために(このことは隠しようもない)、わが父の貴族や諸公がわれらを裏切ろうとし始めた。それゆえ、われらは汝ら卑しい百姓から勤務と真実とを期待して側近く召し抱えることにした —イヴァン4世 上記のようにオプリーチニキは下級士族など身分の低い者が中心であったという見解が一般的であるが、В.Б.コブリンの調査によって、中心的なオプリーチニキは、大勢の門閥貴族を含んでいたことが証明されている。オプリーチニキ親衛隊に参加する際には、ツァーリに対する陰謀を暴き、隠さず報告する旨を誓約した。彼らの服装は特別なものであった。粗末な粗布を縫い合わせた黒服を着用し、箙(えびら)の帯に箒(ほうき)に似たものを結びつけていた 。あるいは、黒貂の毛皮の裏地に金の刺繍を施したラシャの服、その上に、修道僧が着るような、羊皮の裏地をした黒の長衣を着ていたともいう。乗馬用の馬には犬の首がぶらさげられ、乗馬鞭の柄には箒のような獣毛が縛り付けられていた。これは裏切り者に犬のように噛みつき、掃討するという意志を表現したものである。主なメンバーはアレクサンドル村で、修道僧団のような生活を送り、修道院長はツァーリ・イヴァン自身であった 。
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